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By 真愛
14/06/24 21:00
慌てた元『青葉精密』社長はその引きずっていた人をはずし、そのまま逃走。

山元町の本社近く迄戻り、車で自殺を図ろうと近くのブロック塀に激突。

一度では死に切れず、今度は山元町浅生原箱根五十七番地にある墓地のブロック塀に激突したが、今度も死ねずに、バックしてもう一度塀に激突し、死亡した。

この撮影を終えた後、我々調査員は、元『青葉精密』社長が自殺を図った墓地のお寺の住職に会って、話を伺うことが出来た。

お寺の住職との会話・・・。

調査員: 「(社長が自殺したのは)いつ頃の話ですか?」

住 職: 「今から13年か14年位前です」

調査員: 「当時の状況はどんな様子でしたか?」

住 職: 当時は冬の寒い夜の事ですが、夜に凄い音がしてビックリしました」

調査員: 「どうして事故になったのか、原因は分かりますか?」

住 職: 「自殺だったみたいです」

調査員: 「自殺の理由は分かりますか?」

住 職: 「配達の帰りに事故を起こし、その罪の重さにビックリし、自殺したらしいですよ。当時は事故関係者など多数見受けられ、ご家族の方も最初の頃は、何回か拝みに来ていたみたいですね。
私も何回か拝んでいたのですがね、もうここ何年もご家族の方も来られてない様ですね」

※事故現場は彼岸なのに花も飾られてない。
ここ何年か、家族や親戚などがきた様子もなく、寂しい現場となっている。
CA006
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By 真愛
14/06/24 21:26
住職も初めは、拝んでくれるように頼んだが、今では連絡も無いそうである。


夕方、薄暗くなったところでまた村田町にある『幽霊マンション』に戻り、改めて調査する事にした。

見た感じでは、いつもと変わらぬその建物だが、我々調査員は、何かが違う事に気が付いた。
今日は、やけに人(幽霊マンション訪問者)が多い…。
早速、数えてみる事にした。

午後5時34分・・・高校生と思われる男女七名

午後5時36分・・・高校生男子六名

午後5時37分・・・高校生らしき男子四名

午後5時39分・・・高校生と思われる男子三名

午後5時45分・・・高校生男子五名

午後6時00分・・・付近巡回の為パトカーが巡回に来た。
その後、中に入っていった高校生達が、バラバラと逃げて行くのが見えた。

結果:高校生風の男子・・・22名。
高校生風女子 ・・・ 3名。

これを見れば分かっていただけると思うが、短時間の間にこれだけの人がこの『幽霊マンション』に訪れるのである。
時間的にはやはり、夕方の薄暗くなった頃の方が本番のようだ。
巡回のパトカーが来た為、問題の鏡をもう一度撮影する事が出来なかったので、翌日に改めて撮影することにした。

『幽霊マンション』3号棟の鏡と、二階の窓。

問題の二つの映像だが、今回もカメラに霊の姿を収めることは出来なかった。
しかし、何も映っていないからと言っても、さすがに不気味な場所である。

それともただ見えないだけで、他の人には見えているのかも…。
その後の調査で、『青葉精密』と『東京時計』とはまったく繋がりは無いことが分かった。

しかし私達の知らない世界で繋がっていたのかもしれない・・・・・。


CA006
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By 真愛
14/06/24 21:28
6.調査を終えて…。

村田町の『幽霊マンション』の噂話は、地元ではかなり有名なスポット地として知れ渡っている。
すぐ近くには、荒れ果てた公園・神社(何故か東京時計神社!?)がある。
また、工場・社宅・寮と敷地もかなり広い。

問題の寮の建物には、ツルが生い茂り、かなり不気味な雰囲気をかもし出している。

3号棟に住んでいた見習い看護婦が自殺をし、その霊が現れると言われているが、今回の調査において「霊」の確認は出来なかった。
しかし、隣接する工場の元社長が、村田町から帰路の途中に事故を起こし、自殺している事実を掴むことが出来た。

それも、何度も車で壁に突っ込んで死んだという事実。

もし、行ってみようと考えている方は、無事に帰ってこられるように十分に注意をしてほしい。
なお、車で行った人はほとんどが事故を起こしていると言う噂があるため、徒歩で行く事をお勧めする。
CA006
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By 真愛
14/06/24 21:49
7.参 考 資 料

更生会社 東京時計製造株式会社

1975年、インフレと不況が深刻化するなかで、横浜地裁は2月15日、東京時計が申請していた会社更生法の許可を決定した。
地裁が更生法開始決定を下した背景には、村田、本社の両組合(現村田支部、川崎支部)に結集した組合員とその家族が展開した署名運動(更生手続き開始の早期決定に関する要請)と街頭宣伝活動が、決定的役割を果たした事はいうまでもない。
特に村田工場組合の職場と生活を守ろうという素朴な気持ちから発した会社再建の為の諸活動は犠牲的かつ献身的であり、村田町民は勿論の事、全県民の注目をあつめた。
この様な活動はその後も続くが、そのころ賃金遅配の連続であったという事も銘記しておかなければならない。

4月24日、組織内では組合名称変更の全員投票を行い、圧倒的多数の賛意を得て、従業員組合から労働組合になる、と同時に初のメーデー参加のため、職場討議を行い、準備は着々と進んだ。
合理化提案撤回交渉も、時には徹夜に及ぶ事もしばしばであったが、結果は必ずしも思わしくなく、5月30日には三役が横浜地裁、青山判事と面会し、交渉の経過と管財人団の考えを説明した。

平場の交渉が進展しないと見るや管財人団は、6月12日突然小委員会方式による交渉を提案してきた。

交渉員は慎重に検討した結果やむを得ず応ずることに決めた。
結局6月12日より7月7日までの間9回の小委員会を開いた訳であるが、その間、かなり管財人団の意図する事が分かりかけてきた。

初期の団交で「指名解雇はしない」と約束しておきながら、それに準ずるような名簿を提出してきた。

更生手続き開始以来約半年、前途に必ずしも希望の持てる交渉経過ではなかった。
当然、組合員の中には精神的な動揺と生活不安の中で会社を去る人が続いた。

8月と9月にかけて前途に不安を投げかけるようにして賃金の遅配が続いた。

そういう状況の中で職場討議は勿論、代議員会と執行委員会を集中的に開き、遅を担った原因分析と情勢の検討を重ねた。
11月6日人員整理の具体案を提示し、村田工場93名、本社192名の大幅なものだった。
だが、これらの処理はすべて希望退職の形で行われる事は、相方合意に達していた。

その後、合理化問題の交渉は終結という形になり、12月15日から20日まで希望退職者の受付が始まった。
CA006
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By 真愛
14/06/24 22:41
以上:探偵ファイルより抜粋。


:参考資料
1962年(昭和37年):東京証券取引所2部に上場する。
村田工場(宮城県柴田郡村田町)を建設する。

1984年(昭和59年):村田工場閉鎖。
会社は清算される。


この間22年。
その歳月の中この寮では多くの人が生活を営まれていたのだろう。
そして、すべての営みの火が消えた後も静かにたたずんでいたのだろう。若者達の好奇心を集めながら。

もしかしたら本当に、人が去った後は…人ならず亡者の集う場所だったのかもしれない。

2014年6月現在は女子寮、工場共に壊され、工場跡地には老人ホームが建設されており、女子寮跡地には物置が一つおかれている。


以上、一時調査完了です。
すでに壊された物件なので、新たな進展はありませんが、情報があれば更新していきます。
CA006
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