温かい腕に包まれながら、ずっとこのまま時間が止まればいいのに、なんて。非現実なことを思う。あり得るわけないのに、それでも少しも離れたくない、と。気持ちが通じあったのだから、今だけ。もう少しこのままで。そう思うのはきっと自分だけじゃないはずだ。だって、自分を抱き締める翡翠の腕も、離さんばかりと力が籠められているのだから。
「……魅蜻さん」
耳元で囁く声に、魅蜻はゆっくりと顔を上げた。――この胸から顔を離すのは、少し惜しいが。
「あれ……」
と、彼の翠の瞳が、庭園のずっと奥を捉えたので、魅蜻もそれを目で追い掛けてみる。そして、驚いた。
「あれって……」
庭園の花々に囲まれながら歩く二つの人影。ひとつは魅蜻のよく知るもので、結った銀髪が日を浴びてきらきらと輝いている。濃緑のドレスを纏ったその少女は、確かに白雪だ。
最近第三皇子と出来ているともっぱらの噂だが、確かに一緒にいるところをよく見る。部屋も一緒らしい――確かに魅蜻も翡翠の部屋に寝たが、部屋は用意されている――。
と、二人がどんどんこちらに近付いてくる。多分、魅蜻達がいるこの東屋に向かっているのだろう。
翡翠と顔を合わせた。別に、まだ座るところはあるし、やましいことはしていないから慌てて逃げなければならないわけじゃないが、相手は皇子だ。席は立たなければならない。
するとこちらに気付いたのか、翔馬は目を細めた。
「翡翠と――想い……いや、その様子では恋仲か」
「!?」
なぜわかるのだろう。想いが通じたのは、ついさっきだと言うのに。
顔を赤くしてちらりと翡翠を見ると、彼も同じだったのだろう。目元を赤くして立ち上がり、頭を下げる。魅蜻も慌てて立ち上がり、ぺこんと頭を下げた。
「よい、堅苦しいのはなしだ。掛けよ。――予等も少し邪魔をする」
と、後ろで突っ立ったままの白雪を椅子に座らせてから、翔馬は座った。翡翠も魅蜻も、その後にすとんと座る。
「……白雪」
「……や。久しぶり、かな」
声をかけると白雪は少しだけ笑った。顔色が悪いが、笑える元気はあるらしい。とても儚い笑み、だが。
「大丈夫?」
なんて声をかけて良いのかわからなかったから、そんな安易な言葉しか出ない。
「うん、だいじょーぶ。魅蜻も元気そうでよかった」
ゆるりと頬を撫でられて、嬉しくなる。魅蜻はこの白くてすべすべした手が大好きだった。
「翡翠も、よかったね」
そんな白雪の言葉に、少し照れたように、そして少し気まずそうに苦笑する。
「……黒銀は、元気にしてる?」
ぽつりと呟くような、そんな問いかけに、魅蜻は思わず押し黙った。――あれから彼は見ていない。
「……黒銀はおそらく離れにいるので、会ってはいません」
代わりに翡翠が答えると、そう、と白雪は呟いた。
「……差し出がましいようですが、何かあったんですか?」
いや、何があったのですか。多分翡翠はこう聞きたかったのだろうが、敢えてそう聞いた。
「怒らせちゃった、のかな?」
白雪は乾いた笑みを浮かべて木造のテーブルに目を落とし答えた。こんな白雪、見たことがない。
「今日、だね。王位継承の返事」
――そうだ。今日なんだ。
「もし黒銀が帝になったら……翡翠はどうするの?」
「……私も、御側に使えます」
「……そう」
白雪はちらりとこちらを見たが、それ以上何も聞いてこなかった。それに対して、魅蜻はどこかほっとした。もし自分はどうするのかと聞かれたら、きっと答えられなかった。翡翠みたいに即答は、出来ない。――どちらも好きだから。選べない。
「みんな、それぞれ道は変わるんだね」
小さく呟いた白雪に、違うと否定したかったのに。だけど、言葉が出てこない。
「道などひとつではあるまい」
翔馬のよく通る声に、みんなは一斉に彼を見た。まだ若い少年だが、なぜだか彼の纏う雰囲気はそこらの少年とは異なる。それは、彼が皇子として生きてきたからだろう。
「そなたの歩める道もまた同じ。常に枝分かれて、その道を選ぶのは己自身」
「翔馬さま……」
「そなたはもっと我が儘になってもよいのだ」
翔馬の手の甲が白雪の頬を撫でる。その仕草はどこか慈しむように優しかった。
それから翔馬と翡翠、白雪と魅蜻はそのことには触れないように他愛ない話をした。
「皇子様」
そこに、ひとりの侍女が現れた。料理が乗った銀色のワゴンを引いた栗毛の少女。魅蜻についた侍女ではない。確か、白雪の舞踏会の時の着替えの部屋にいた気がする。
「お食事の用意が出来ました」
「うむ、頼む」
てきぱきと侍女はテーブルに料理を並べていく。出来立てのそれはほかほかと湯気を立てていて、美味しそうだ。
「そなたらも食べていけ」
「は。ありがたく存じ上げます」
「い、いただきます」
魅蜻も頭を下げてから手を合わせ、食事が始まる。城の料理は何で食べても美味しい。
「白雪様、侍女頭の千里様がこれを貴女様にと……」
と、可愛らしいガラスの瓶を差し出す。
「白雪様が持っていらっしゃった杏が熟したので、ジャムにさせていただきました。杏本来の旨味を損なわないように砂糖は控えめですが、美味しいですよ」
「千里さんが……。ありがとう、蘭珠」
この侍女は蘭珠というらしい。礼を言われた蘭珠は嬉しそうに笑った。
「残りは干し杏にしてますので、何日か経てば美味しく召し上がれますよ」
「そっか。……一郎達がくれた杏、無駄にしちゃうとこだった」
白雪も少しだけ笑い、手を合わせてから、小さくちぎったパンにつけて食べ始める。
「……美味しい」
ぽつり、と呟いた白雪を、蘭珠は甲斐甲斐しく世話し始める。
「蘭珠、紅茶のおかわりを頂いてもよろしいですか?」
翡翠が蘭珠に呼び掛けると、彼女はすぐさま紅茶をカップに注ぐ。どうやら顔見知りなようだ。
「……思ったより元気でよかったです」
「翡翠様……。確かに主様が……琥珀様がいなくなったのはとても悲しいですが、今は精一杯白雪様にお勤めさせていただけて、嬉しいです」
どうやら蘭珠はいなくなった皇太子の琥珀付きの侍女らしい。
「ああ、そうか。そなた琥珀兄上の側付きだったな。通りでどこか見たことがあると思っていた」
納得したように呟く侍女に、蘭珠は小さく頭を下げ、「はい」と返事をする。
「側付きなら、何ゆえ兄上が王位継承の前に姿を消したか心当たりはないか?」
「……いえ、何も存じておりません。側付きとは言えどただの侍女ですので、何も」
俯いて頭を振った蘭珠に、翔馬は「そうか」と呟いて紅茶を飲み干した。
「おかわりはいかがですか?」
「いや、いらぬ。すまなかったな、辛いことを聞いてしまって」
「滅相もございません!あたし……いえ、わたくし、きっと帰ってくると、信じていますから」
「そうだな……きっと帰ってくるだろう」
翔馬も頷き、隣でちびちびとパンを食べていた白雪の口に、一口に切られた冷えた桃をフォークに突き刺して突っ込んだ。
「むぐっ」
「甘くて美味い」
「だ、だから、自分で食べれます」
この会話、似たようなものを昨日の朝食の場で聞いた気がする。
なんだかすごく仲がよいと、魅蜻は思った。もしかしたら、噂通り二人は……。
「放っておけばそなた、すぐに手を止めるからな」
「ちゃんと食べてます」
「予にはそう見えんが」
う、と詰まる白雪に翔馬は目を細めて笑った。そんなやりとりでさえどこか仲睦まじく、魅蜻は眉を潜めた。
もしそうだったら、黒銀はどうなるのだ。あれだけ白雪を愛し慈しみ、いつだって気にかけていた、黒銀は。
癪だが黒銀は魅蜻よりも白雪をわかっている。白雪だって、少なくとも黒銀を信用していたはずだ。
あれほど好きな少女が、弟の側にいている。そして、今では尾鰭がついた噂もおそらく彼の耳には入っているだろう。
――自分だったら狂ってしまうかもしれない。
もし翡翠が他の女と寝泊まりして、片時も離れず側にいたのなら、きっと悲しくて寂しくて腹立たしくて、泣いてしまいそうだ。
白雪はわかっているのだろうか。そのことを。
そう思うと、少しだけ白雪が恨めしく思えた。
そんな魅蜻の思いなど伝わることなく、昼食は終わった。
立ち上がった翔馬に白雪も立ち上がる。さも当然のように。それがちょっぴり腹立たしい。
「それでは、邪魔をした」
それだけ言い残した翔馬は白雪と共に戻って行った。
蘭珠もとっくに戻って行ってしまったので、魅蜻は翡翠と二人、その場に取り残された。
「……魅蜻さん」
ぼうっとしていると、翡翠が顔を覗き込んできたので、慌てて身体を反らす。
「――気持ちは痛いほどわかりますが、これは彼らの問題です。それに、答えは今夜、出ます」
「――うん」
わかってる。わかっているけど、やはり少し悔しい。あれでは黒銀が報われないではないか。
眉を下げてしょんぼりしていると、翡翠にぐいと腕を引かれた。いとも容易く翡翠に引き寄せられた。かと思えば、端麗な顔が近づいてきて、そのまま唇が重なった。
「――――っ!?」
目を見開いて、近距離の顔を凝視した。
これは、――キス。二度目の、口付け。
ゆっくりと顔が離れる。と同時に、顔に血が集まるのが自分でもわかった。きっと顔が茹で蛸のように真っ赤だろう。
「――相手が黒銀と言えど、あまり私以外の男を思ってそんな顔をしないで下さい」
「――!」
それって……。
ばっと翡翠を見上げると、彼は耳に口を寄せ、囁いた。
「――私、こう見えて嫉妬深いんです」
そしてもう一度、唇が塞がれた。
どきどきとうるさい鼓動が、気持ちよい。叶うならば、ずっとこんな風に触れていたい。
――大好き。
2.END.