暗い部屋の中に、黒銀はいた。燭もつけず、暖も取らず。洋服は脱ぎ捨て代わりに着物を着て肩に羽織を掛け、縁側で片膝を立てもう片方の脚を投げ出し、鯉が泳ぐ庭の池を見つめていた。
普段の彼からは信じられないような蛻の殻の状態だ。
脳裏に焼き付いた二人の姿が離れない。あっけらかんとした翔馬と、白い脚を惜しみ無く出した白雪の姿。
――っ、くそ。
違うなら違うと言えばいいものを、あろうことか俯いた。あれでは肯定しているもののようだ。
思い出すだけで腸が煮え繰り返りそうで、苛々が募る。
黒銀は唐突に立ち上がり、暗い棚を手探りで探す。ようやく目当てのものが見付かり、また縁側に戻る。
手の中のものをじっと見つめる。――煙管だ。最近は止めていたが、何か落ち着けるものがなくては狂ってしまいそうだ。
口にくわえて火をつける。たちまちぷかぷかと煙が立ち上る。
煙と共に息を吐き出すと、少し気分が落ち着く。――気休め程度にしかならないが。
本当に欲しいのは、こんな気休めなんかじゃない。いつも大人びた振る舞いなのに、気を許している時に見せる子供のような顔の少女。
――白雪。
カタン。
小さな物音に、期待してしまう。しかし庭から姿を現したのは、今一番顔を見たくない弟だった。
「面倒だから庭から失礼します」
ずかずかと入ってくるこの少年を、無性に殴りたくなった。――なんで来たんだ。
「執務も投げ出して憂いながら煙草とは、わが兄上ともあろう方が情けない。それで皇子と言えよう?」
「――何の用だ。嫌味を言いに来たのか?」
我ながら凄みが含まれた低い声が出る。だが飄々とした少年は目を細めるだけで動じた気配がなかった。
「貴方個人宛の書類、予が始末は出来ますまい」
と、少量の書類を押し付けてくる。
「拗ねるのは勝手ですが、仕事くらいしていただきたい。ただでさえ琥珀兄上も不在だというのに……。次期帝がそのようでは民に示しがつきませぬ」
「俺は帝になどならない。是が非でも兄貴を捜しだす。あの人ほど帝に相応しい人間はいないだろ」
人望があり頭もよくて穏やかで、国の安泰を誰よりも望む兄。
「……予は黒銀兄上の方が帝には相応しいと思いますが」
「馬鹿言え。自由奔放な俺が帝になれるわけがないだろう」
「と思うなら執務くらいこなしてください」
――この弟はこんなに口が達者だったのだろうか。
少年を睨み付けると、彼は懐から取り出した檜扇を口元に当ててうっすらと笑った。
「それではこれで。予には仔猫の世話があります故」
「仔猫って……まさか」
踵を返した少年は肩越しに振り返り、目を細めて笑った。
「どこかの頭でっかちのせいで水すら飲んでいない弱った仔猫です」
それだけ言い残して、少年はさっさと闇夜に溶けた。
――痛い。
白雪はベッドに埋もれながら、胸を押さえた。傷なんてないのに、どういうわけかずきずきと痛む。
どれくらいそうしていたかはわからないが、明るかった部屋も気付けば真っ暗だ。侍女が食事をテーブルに運んできてくれたが、それすら口にしていない。いつもなら真っ先に飛び付くデザートにすら見向く気にもなれず、ただじっとしていた。
おもむろにベッドから降り、ぺたぺたと素足で窓に近付く。窓を開け放つと、漆黒の空にぽっかりと浮かんだ歪な形の月。
ひらり、と蝶が目の前を過る。真っ白の、蝶。まるで誘うようにひらりひらりと弧を描きながら飛ぶ。
白雪はぼんやりとそれを眺め、ゆっくりと手を伸ばす。
――勝手にすればいい。
怒気が孕まれた声音。思い出す度に心が凍り付きそうになる。
いつからだろう、こんな風に弱くなったのは。
やはり自分は人と関わるべきではなかったのかもしれない。
昔も、何度も期待した。作りものの笑顔でも向けらる度、嬉しかった。だけど、瞳の裏に隠している蔑みの色を見つける度に裏切られたような突き放されたような、そんな感覚に陥る。それでも彼らが優しい“ふり”をしている時は嬉しくて。
――化け物ッ!!!!人殺しっっ!!
ぐらり、と身体が傾いた。
「――あ」
ゆっくりと前のめりに傾いていく。
――ここって三階だっけ。落ちると痛いかなあ。
なんて呑気にぼんやり思っていると、ぐいと腰を抱き寄せれ、今度は後ろに傾く。どさり、とそのまま倒れてしまう。
――あれ?
「馬鹿者っ!!何をしておるのだ!!」
鋭い叱責にびくりと身体を震わせてしまう。
「――すまぬ、怖がらせるつもりはなかった。大事ないか」
そっと翔馬の胸に抱き寄せれ、白雪は「ごめんなさい」と呟くように言った。
「――何ゆえ手を伸ばしていた。まさかそなたが自害など試みた訳じゃあるまいに」
ぽんぽんとあやすように背中を撫でられ、思わず力が抜けてしまう。「蝶が……」と小さく呟いた。
「蝶?」
「真っ白い蝶が……」
「真っ白い蝶だと?」
こくり、と頷く。確かに、自分とよく似た白い蝶だった。
「……そうか」
それきり黙り混んでしまった翔馬だが、不意に立ち上がると灯りをつけた。暖も取らずに冷えきった部屋は先程覗いた離れとそっくりだと、翔馬は思った。
「――食事も手付けずだな。そなた、そのままだと倒れてしまうぞ。今なにか温かいものでも持ってこさせよう」
と、扉に向かって歩いていってしまう。
――寝たか?
――ようやく薬が効いたわ。ったく、気味悪いったりゃありゃしないわ。いつまでこんな化け物を飼っておくんでしょうね。
――さあな。まあ、優しいふりをしときゃ大丈夫だろ。所詮子供だ。
「や、だ……」
その背中に向かって手を伸ばす。
――置いていかないで。
置いていかないで。独りにしないで。怖い。
「いか、ないで……」
独りは嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ。
「……白雪?」
ふと振り返った翔馬が、ぎょっとしたように目を見開いた。
「いいこにするから、置いていかないで……」
「――――ッ!?」
今にも泣きそうな少女を、翔馬は咄嗟に抱き締めた。
「痛いのも苦しいのも我慢するから、だから、置いていかないで……」
過去と現在がごっちゃになった少女の身体を、翔馬はただ力強く抱き締めるしか出来なかった。
あれだけ辛そうな顔をして、声音をして、だけど少女は泣かなかった。何かに怯えているようにしきりに服にしがみつきながら、「置いていかないで」とか「独りにしないで」とか、うわ言のように言っていた。
ようやく落ち着いたのか、ゆっくりと離れた。
「ごめん、なさい」
「――いや」
――もしやそなたを追い込んだのは予かもしれん。
いつも自由な黒銀がちょっとだけ妬ましくて、彼がこの少女に好意を抱いているのは一目見たときから気付いていたから、少しだけ意地悪をしてやろうとけしかけた。
だけど事の他大事になり、しまいにはなにかこの少女の古傷を開いてしまった始末だ。
黒銀のあんな沈んだ様子も、初めて見た。
どうやら元から拗れつつあったようだが、まさか自分の一言が決定打になるとは。
「身体が冷えきっておるな。温かいものを……置いていかれるのが嫌なら共に来ればいい。どうせなら下で食べよう」
立ち上がるとすがり付くような目をした白雪に苦笑し、冷たくて小さな手を引っ張って立ち上がらせる。
「執務で遅くなったから予も飯はまだなのだ。温かいスープくらいは飲めるだろう。行くぞ」
その手を引いて、裸足の少女に靴を履かせてから、部屋を出た。
真夜中なのだ。人通りは少なく静かだ。番兵ですら舟を漕いでいたから頭を小突いてやろうとも思ったが、どうせ部屋にはいないのだから今回は見逃してやることにした。
侍女に簡単な食事を頼んでから、翔馬は白雪をつれて談話室に来た。
あまり広くはないが、暖炉もあるし落ち着く部屋だ。
暖炉を炊いて二人掛けのソファーに腰を降ろす。隣にちょこんと座った少女をちらりと見てから、翔馬はぱちぱちと音を立てて燃え始める暖炉に目をやった。
会話をするでもなく沈黙していると、控え目なノックと共に侍女頭の千里と栗毛の少女が入ってきた。
「失礼致します、翔馬様」
両手で料理を抱えた二人は翔馬達の目の前に料理を並べる。
「簡素かもしれませぬが……」
「よい。かような時間にすまぬな」
ほこほこと湯気を立てる香ばしい料理達に忘れていた空腹が甦る。
「……白雪様」
まるで壊れた玩具かのような生気のない少女に、栗毛の侍女が心配そうに呼び掛ける。千里でさえも、心配げに少女を見ている。
ちらり、と白雪は栗毛の侍女に目をやった。
「ああ、あのときの栗毛の侍女さん……」
にこ、と弱々しい笑みを浮かべる白雪に、栗毛の侍女はたまらず白い手を取る。
「蘭珠(らんしゅ)と申します。あの、少しでもお食べくださいね」
「蘭珠……。うん、ありがとう」
こくりと頷いた白雪に、蘭珠は少しほっとしたように笑う。
「千里に蘭珠、ご苦労であったな。各々もう休め」
「はい。それでは、失礼致します」
千里と蘭珠は頭を下げてから静かに出ていった。
翔馬は手を合わせる。
「……食べるのが無理ならせめてそのスープくらいは腹に入れておけ」
じっと料理を見つめた少女に言うと彼女は顔を上げてこちらを見て、小さく笑って頷いた。まだどこか痛々しいもの、少しほっとする。
この少女は自分より歳上のくせに、ひどく小さな小さな子供に見えるときがある。
弱く握った腕でさえ少し力を加えれば折れてしまいそうなくらい儚い。
――一体この少女はどんな傷を負ってきたのだろうか。
END.