周りから聞こえる噂で事情はだいたい呑み込めた。
なんでも舞踏会の会場で仲睦まじく酒を呑み交わしダンスまで踊っていたらしい。あの“第三皇子”が。
そして決めて手は、滅多に人を入れることのない翔馬の私室に彼女を連れ込み、一晩明かしたことだ。
人の目とは怖いもので、どこで見ているかわからない。噂はたちまち広がり、夕時にはもうそのネタの持ちきりだ。特に暇な貴族の女達には格好の話題だろう。
翡翠はどうしたものかと溜め息をついた。
男女の間柄なんて何があるかはわからないし、白雪に限ってとも思うが、断定は出来ない。それに彼女も元気がなかった。
それまでも最近は調子がおかしかった二人だが、今日の黒銀と白雪は端から見ても明らかに雰囲気が悪かった。お互いが拒絶しているような、そんな感じだ。
一体何があったのかと頭を悩ませながら、仕事部屋で一人書類整理をする。
溜まりに溜まりまくっていた仕事だ。無期限の旅といえど、その間は誰かしらが代わりにやっていてくれたが、戻ったとなるとそうはいかない。一通り目を通してから、黒銀に渡す。あくまでも自分は目を通すだけで、書類をこなすのは黒銀の仕事だ。
ちなみに魅蜻は晴花が側にいてくれているので安心だ。
――早く終わらせて顔を見たい。
そう思いながら、一枚ずつ目を通していっていると、ノックもなしに扉が開いた。
入ってきたのは噂に挙がる名前の筆頭ともいえよう第三皇子、翔馬で、翡翠は慌てて立ち上がり頭を下げる。
「よい、座れ」
つかつかと近寄ってきた翔馬に短く返事をして、座る。
「……ここにあったか。ご苦労だった、これは予が受け取ろう」
と、机の上に重ねられた書類を翔馬は手に取りぺらぺらと確認する。
「しかし……」
「確か数件急ぎの書類があったはずなのだ。城下町外れの小火事件で焼け焦げた裏門の修理と、そろそろ町村の橋の点検もせねばならぬ」
「はあ……」
思わず驚いたように少年皇子を見てしまう。今まであまり接点がなくまともに会話した記憶もなかったが、この少年はこんなにもしっかりとしていたか。
「……なんだその顔は。予とて書物を読み耽っているだけではない」
じとりと睨まれ、慌てて目を伏せる。
「どうせ今は黒銀兄上も役には立たぬだろうからな」
溜め息混じりに言われ、むっとはするが努めて顔には出さないようにする。相手は皇子だ。
「……白雪嬢は」
然り気無く聞くと、翔馬はきょとんとしてから、ああと呟いた。
「そういえばそなたも面識があるのだったな。あれは予の部屋におる」
さらり、と事も無げに言った翔馬は、とんとんと書物を机に打ち付け整えて、肩を竦める。
「まるで飛べぬ鳥だな」
「そう、ですか……」
――確かに、朝食もろくに食べていなかった。ただじっと俯いていた。
「あれと兄上は恋仲なのか?」
唐突に降ってきた言葉に噎せそうになるのを耐え、冷静を保つ。
「多分、違うと思います……」
はっきりと聞いたことはないが、違うとは言い切れない。旅の最中に共にひとつの褥で寝、――事故とはいえ――唇だって重ねていた。
「――兄上の片想いか。うむ、だと思った。あれは鈍すぎる」
そうなのだ。鈍すぎるのだ。だからこそ余計に、すれ違う。
「にしても、意外だな。周りがほとほと困り果てるほどの伊達男が、あんな小娘に惹かれるとはな。確か歳上キラーだっただろう」
――白雪嬢は貴方より歳上ですよ。
なんて言葉を懸命に呑み込み、確かにそうだと苦笑する。
――女は後腐れがない歳上に限る。
本気の恋愛は面倒だ、彼はいつかそんなことを言っていたのだ。だが、翡翠が呆れるほどに黒銀は白雪にのめり込んだ。馬鹿がつくほどの過保護っぷりを、道中はいやというほど見てきた。
「そなたらが幼女趣味とは思わなかったぞ」
ぶっと噴き出してしまう。堪らずごほごほと噎せて、涙目で少年を凝視する。
「ん?あの紫髪の娘が好きなのだろう?白雪とあまり変わらぬではないか。……まあそなたなら、わからなくもないな」
どういう意味だ。
自分とてどちらかというと歳上好みだった。といっても滅多に手は出さないが。まさかこれほど歳が離れた娘に牽かれるとは思ってもみなかった。
「それでも魅蜻さんは……魅蜻さんだから、いいんです」
つい本音を呟くと、彼は目を丸くした。
「……惚気たな」
はっとして口を押さえる。顔を赤くなるのが自分でもわかった。
「……ふん、まあよい。そなたもう二刻もここに籠っていると聞いた。その愛しの娘の元へ行ってやれ」
ひらひらと書類を揺らして彼は部屋を出ていった。
――翔馬様。
初めて見た時はまだ五つの小さな幼子が、いつの間にかこんなに成長していたのか。
翡翠は立ち上がり、部屋を出る。
黒銀は離れにいるのだろうか。彼は一人になりたい時はいつも、あそこにいる。
王位継承の件をどうしようが、翡翠は彼についていくつもりだった。
しかしもし黒銀が帝になれば、旅はもう一生出来ないだろう。――そうなると、魅蜻はどうなる。
隣にいてくれるのだろうか。それとも、白雪が旅に出ると行ったらついていくのだろうか。――その可能性の方が極めて高いだろう。
そうなったら、自分はどうするのだろうか。いや、黒銀についていくという覚悟はとっくに決まっている。だが、魅蜻は失う。
――どっちに転んでも、手に入るのはひとつのみかもしれませんね。
夕日に包まれた美しい庭園の東屋(あずまや)で、魅蜻は目を丸々とさせていた。
「さあたんと召し上がれ」
目の前に広がるお菓子に魅蜻は晴花を見つめた。
「食べて、いいの……?」
「いいのよいいのよ、西の国の一流パティシエ仕立てだから美味しいわよ」
隣に控えた執事服の使用人がこれまた高そうなアンティークのカップに紅茶を注いでくれる。
立ち上る紅茶の香りと出来立ての菓子の芳ばしい香りが絶妙だ。
「でも、ご飯前……だし」
「少しくらいなら大丈夫よ。魅蜻ちゃん細いんだからもっと食べなさいな」
肘をついてにこにこ笑う晴花に、じゃあと呟きクッキーを手に取る。
「元気なかったでしょ?魅蜻ちゃん。甘いもの食べたら元気出るかなあって思って。それに、この間クッキーくれたお礼もしたかったしね」
「晴花……」
胸がきゅうと熱くなり、何かが満たされる。これが友達なのかと感動する。
「そういえば、あの人は……?」
クッキーを一口かじって聞く。――美味しい。紅茶も蜂蜜が入っていてとても美味だ。
「慶浚?仕事よ仕事。いつも一緒にいるわけじゃないわよ?寧ろ、仕事だからいるわけで、そうじゃなかったらあんな堅物となんか同じ空気を吸ってられないわよ」
すごい言われようだ。――だが魅蜻もなんとなく苦手なので、ほっとしつつ同情はしないが。
「その言葉そっくり返そう――」
「っ!?」
思わず持っていたカップを取り落としそうになるくらい、音もなく晴花の背後に現れた慶浚に驚いた。――落とさなくてよかった。弁償なんか出来る額じゃない。
「ちょっと、いきなり出てくるんじゃないわよ」
驚いた様子がない晴花にも驚いてしまう。なぜそう平然としていられるのか。
「文だ」
相変わらずの無表情で、懐から取り出した手紙を晴花に渡す。
「はいはいご苦労様ー」
受け取った晴花はそれを開き目を通し、また畳む。
「――モテる女は辛いわね。これ、返しといて。“あたしの値段は高いわよ”ってメッセージつけて」
手紙を押し付けられた慶浚は、無言で踵を返して去っていった。
「――ら、ラブレター?」
目を輝かせながら聞くと、晴花はウインクをして笑った。
「――とびっきりのね」
2.END.
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