少女の細い腰を抱きながら、優雅にステップを繰り返す度、魅蜻のドレスの裾がふわりと揺れる。
こんな風に触れていたら、そろそろ自制心が効かなくなりそうだ。
だけど無理矢理触れたら怯えさせてしまいかねない。それだけは嫌だから、ゆっくりと近付く。
――恋には忍耐力が必要なんだよ。
穏やかにそう言っていた、今は失踪中の皇太子が脳裏に浮かぶ。
皇后とよく似ている稲穂のような髪と目の、美しい皇太子。
翡翠が兄のように慕っていた、琥珀。
――どこにいるんですか、琥珀様。
なぜ失踪などしたのか。御身は無事なのか。
一目でも会いたい。
――琥珀様。
「慶浚、あたし達も踊っとく?」
手持ち無沙汰になったのか、晴花は隣で腕を組んでいる慶浚を見上げて聞く。
「断る」
「うん、冗談だから。……機嫌悪いわね」
何が原因なのかは聞かないけど。そんなのひとつしかない。
「あれは魔女だ」
忌々しげに吐いた慶浚に、思わず苦笑してしまう。彼がここまで露骨に態度を表すのは珍しい。
「ほんっとあんたて黒銀様好きよね」
「大切な主だ。俺の主はあの方だけだ」
だから、あの方の周りの邪悪な芽は根こそぎ刈らなければならない。晴花にはそう聞こえた。
「最近あんたが男色家だってもっぱらの噂よ。まあ、ある意味そうなんだけど……」
「寝言は寝て言え」
眉を寄せた慶浚が、踵を返して歩いていく。
晴花は高い天井から釣り下がった大きなシャンデリアを見上げ、短く息をついた。
――悪い芽は根こそぎ、ね。
それぞれが舞踏を楽しんでいる中、第三皇子と銀髪の風変わり少女という奇妙な組合せの二人は、広間の隅で酒を酌み交わしていた。
ちびちびと風味を楽しみながら呑む自分とは対照的に、ペースの早い少女。
聞けば自分より一つ上の十六というが、なんとまあ雑な呑み方なのだろうか。強いのか自棄混じりなのかはわからないが、見ているこっちが些か心配になる呑み方だ。
「おい、呑みすぎだ」
「翔馬さまはあまり進んでませんね」
呑む手を止めない少女の言葉に顔をしかめてしまう。――風味を楽しんでいるのだ。呑めないわけではないぞ。
なんて言ってもこの少女は物怖じもせずに笑い飛ばすだろう。口も達者なので、ある意味自分とどっこいどっこいだ。
「白雪」
名を呼んでたしなめるが、効果は皆無で。それどころか新しいグラスを貰っている。
これには翔馬も諦めるしかなかった。
「ね、翔馬さま」
不意に呼び掛けられ、ん?と顔を上げる。すると、にこにこと笑んだ――決していい笑みとはいえない――白雪が、何かを口に突っ込んできた。
「むふ…………干し苺か」
甘味よりも酸味が効いたそれを飲み込み、呟く。見れば白雪は美味しそうに食べているではないか。
――酒に甘味とは、酔狂だな。
くく、と笑い、少女の手から干し苺を奪い口に放り込む。――旨い。
それから残っていた酒を一気に飲み干し、立ち上がる。喉がかっと熱くなるのがわかった。
「よし、白雪」
手を差し出すと、首を傾げた少女が訳もわからぬままその手を取る。
白雪の手に持ったグラスを置かせ、引っ張って広間の中心まで歩く。
「翔馬さまー?」
蕩けてしまいそうな口調に翔馬はくっと笑った。――これじゃ幼子だ。
白雪の手を握りながら堂々と真ん中までいくと、みながさっと道を開けてくれる。中には銀髪の少女にぶしつけな視線を投げ掛ける者もいたが、翔馬は一瞥して一蹴した。
「踊れるか?」
「舞ならちょっとは……だけどこのダンスは踊れません」
「舞か……ふむ、興味深い。今度みせて貰おう」
自然に少女の腰を抱き、ゆらりと踊り始めると、順応性があるようで、彼女もすぐに慣れたようで追い付いてくる。
「旅の資金稼ぎの為のかじりものだから、あまり上手くはないと思います……」
ぽす、と自分に凭れかかる少女の腰は驚くほど細く、力を入れたら折れないか心配だった。
翔馬の知る女はほとんどある程度肉が付いており気持ち良さそうな身体なのだが、白雪は腰も腕も脚も、頼りないくらいに折れてしまいそうなほど細い。しかしどこか色香が滲み出てはいるのが不思議で堪らない。
「退屈しのぎになればそれでよい」
「そ、ですか……」
ふにゃふにゃした口調に、ふと少女を見下ろす。
「……まずい」
寝かけている。瞼は半分下りていて、体重はすべてこちらにかかっている。
「おい、寝るでない。白雪」
「寝てません……くあ」
大きなあくびをかまして、瞼は完全にシャットアウト。
――この馬鹿者。
舞踏の最中に寝るやつがあるか。
崩れかけた白雪を慌てて抱き上げるが、思いの外ずしりとしている。
――ああ、これか。女はこんな重いものを着て動くのか。大変だな。しかし鍛えられるのではないか。
ひだの多いドレスを纏った少女を見ながらそんなことを呑気に思い、さっさと歩き出す。
入り口警護の番兵に「今日はもう寝る」とだけ伝え、私室に向かった。
白粉の匂いを漂わせた女達が、せがむように身体を引っ付けてくる。
「黒銀様ぁ、お元気になられてよかったわあ。ひさしぶりに晩酌いたしましょうかぁ?」
「寂しかったんですからー。飢えてるならあたくしが相手しますわよ」
「いやいやわたくしが」
甘ったるい口調の女達に、黒銀はふっと苦笑する。
「そうだな、みんな魅力的過ぎてまとめて相手したらまた床戻りになりそうだ」
また今度な、と囁いて酒を呑む。
――皇子さまが流れ者なんかに構わないでください。
はっきりとした拒絶。彼女も身分を感じているのだろうか。彼女も身分に囚われるのだろうか。
――くそ。
ぐい、と酒を煽る。
「黒銀様、そんなに呑んでは病み上がりの御身に障りますわ」
そんな言葉も受け流して、次々に酒を口に運んでいると、中央で踊る翡翠と魅蜻の姿が目に入った。
仲睦まじやかに身体を合わせ踊っている。
――羨ましい。
自分は白雪と踊るどころか、拒絶された様だ。
一通り踊ると気が済んだのか、翡翠が魅蜻の手を引いて輪から抜け出す。
翡翠に先を越された、なんて思っていると、愛して止まない銀髪が視界に入った。
傾けかけたグラスを離し、中央に目をやると、愛しい少女の手を引いて堂々とど真ん中に向かって歩く弟の姿。
「な……」
絶句してしまった。
確かにさっき白雪の側に翔馬はいたが、偶然だと思っていた。少なくとも、ダンスを踊るような間柄ではないと確信していた。のにも関わらず、有り得ないくらい密着して踊っているではないか。
白雪が翔馬の胸に頬を擦り寄ってくる寄せているようにも見えるから、余計に言葉を失う。
それからすぐに白雪を抱き上げ、広間を出ていく翔馬。堂々たる足取りで。
――どういうことだ。
「翔馬様も酔狂ですわよね、あんな得体も知れない小娘を」
「まあどこか風変わりなところがありますものね」
「きっと幼女好きなのよ。……まあ御年弱冠十五ですものね」
「黒銀様は昔から歳上好みでしたよね。……黒銀様?」
女達の声など一切耳に入ってはいなかった。ただ瞬きすら忘れ、翔馬と白雪が出ていった扉をじっと食い入るように見つめていた。
ふわふわしてぽかぽかする。
翡翠が貴族に呼ばれ話している間、踊り疲れた魅蜻は喉が渇いていたので近くにあったグラスの中身を飲み干した。
すると身体が熱くなり、ふわりと浮遊感を感じた。
中々美味しいもので、もう一杯飲んでみると、よくわからないが身体に羽根が生えたような気分になる。
「うふ、ふふふ……」
よくわからない笑みが漏れるが、気分が良いから気にならない。
「魅蜻さんお待たせしました……て、魅蜻、さん?」
戻ってきた翡翠が魅蜻の顔を見て固まる。――真っ赤な顔に、口元は緩んでいて、不気味ともとれる笑みを漏らしているのだ。
そして手に持ったグラスをみて、顔を強ばらせる。
「――魅蜻さん、貴女酒を……」
「ひしゅいー」
「ッ……」
回らない呂律で名前を呼び飛び付くと、息を呑んだ翡翠。
「魅蜻さ……?」
「えへえへー、ひしゅいだーいしゅきー」
すりすりと翡翠の胸に頬を擦りよせてみると、ぎゅうっと抱き締められた。
「ひしゅいー?」
「貴女弱かったんですね……」
耳元で囁かれると、ぞくぞくする。
「ん……ッ」
「……!?」
途端翡翠に抱き上げられた。
「ひゃ……」
「すみません、舞踏会は終わりです。行きましょう」
「おわりー?」
まだあんなにも賑わっているのに。
とは思うが、翡翠の腕があまりにも心地好くて、素直に身体を預けた。
――翡翠と一緒なら、どこでもいいや。
そんなことを思って。
眠りこけた少女を見下ろして、翡翠は溜め息をついた。
――これからは私以外の前では呑ませないことにしましょう。
少女を自分のベッドに寝かした少年は、ふーと息をついて首をこきこきと鳴らす。――一苦労だな。
少女が四・五人眠れそうな広いベッドの中心で、柔らかなそれに埋もれた少女を見下ろして、翔馬は苦笑する。
――なぜ皇子が自らこんなことをせねばならぬのだ。
しかし、悪くないとも思える自分も確かにいるのだ。
「んん……」
苦しげな白雪の呻き声に、ベッドに腰かけて顔を覗きこむ。
「……苦しいのか」
確か女はコルセットをしている。締めるところは実際に見たことはないが、“締める”よりは“絞める”といった表現の方が近しいと聞いている。
女を寝室――といってもこの私室ではない――に連れこみ、コルセットが締まっているところを見たことがあるが、心底男でよかったと思ったこともある。
翔馬は少女を横に向け、背中のファスナーを下ろして、リボンやらなんやらで手惑いながらもドレスを腰まで下げることに成功した。
「うわ……えげついな」
肌に食い込むほど力一杯締められたそれは、見ていて痛々しい。解くにも、複雑すぎる。しかし放っておくわけにもいかないから、背中の紐を一本一本丁重に解いていき、すべてが解けた頃には翔馬も疲れきっていた。
――女とは面倒なものばかりを身に纏うのだな。
コルセットを抜き取ると、この世のものとは思えないくらい乳白色の肌に、痛々しいコルセットの痕が赤くついている。
つつー、と指でなぞってみると、白雪は小さな声を漏らしたが、起きる気配はなかった。
「予の寝床で肝が据わったやつだ」
くく、と笑い、ドレスを上げてやる。と、ふと髪で隠されていた少女の肩に巻かれた包帯が目に入った。
――なんだ、怪我でもしておるのか。
少し躊躇ったが、ゆっくりと包帯を外してガーゼを取り、絶句した。
「刀、傷……」
引き攣った傷口は明らかに刀傷で、重傷だったことを物語っている。――旅をしているだけでこんな酷い怪我を負うのだろうか。
新しいガーゼを当てそっと包帯を巻き直し、ドレスを着る。ついでに慶浚の手形がくっきりとついた手首に湿布を貼ってやる。
翔馬はベッドに座りながら複雑な顔をし、しばらくは眉間に皺を寄せていたが、はあーと息を吐き出しては服を脱ぎ、浴衣を着て、灯りを消してから少女の隣にごろりと寝転がる。
すうすうと規則正しい寝息に、眠気が沸き上がる。普段なら滅多に寝ない時間だ。
第三皇子とは言えど少なからず皇子の役目を務めているし、本を片っ端から読み耽っているので、酷い時は寝るのは朝方だ。
毛布を引き上げ、大きな欠伸をひとつ。
隣にいる抱き枕を、傷に触れないようにして抱き締めると、一層眠たくなる。
――うむ、抱き枕としてはいうことなしだな。
なんて思いながら、少年皇子は眠りに誘われ堕ちていった。
4.END.
く