右腕は血が止まったことで白い肌からは血管が浮き出てどくどくと脈打ち、桜色だった爪は白く変色する。手首を力一杯掴まれると指は動かなくなる。
「折れる。離してくれないかな」
本気で折りかねん力だ。いや、折る手前でわざと調節している。嫌な男だ。
「おい、慶浚。何をしておるのだ、離せ!」
色が変わった腕に気付いた翔馬が慌てたように叫ぶ。すると慶浚はちらりと少年を見てから、すっと離す。
「翔馬様、このような娘の手から食さないでくださいませ。――御身を御大事に」
かちん。これには頭がきた。
白雪は真っ赤に手跡がついた腕を擦りながら、慶浚を見上げ目を細める。口元にはうっすらと“いつも”の笑みを掃いて。
「まるでわたしが翔馬さまに毒でも与えるかのような言い種だね」
「貴様の連れが待っている。行くぞ」
――無視の挙げ句に貴様、だと?
「――行くなら一人でどうぞ」
冷めた声音と表情に、ぴくりと慶浚の眉が僅かに動く。
「来い。貴様を一人にするわけにはいかん」
「生憎、ずっと殺気を飛ばされていたら身体が持たなくてね。丁重にもてなすとは言われたが監視するとは言われた覚えがないよ」
慶浚の金色の瞳が凄むように鋭く細められる。
何やら不穏な空気が二人の間に流れたのを見て、翔馬は眉を寄せる。――険悪なのが一目瞭然だ。
「来い」
「命令しないで。放っておいて」
と、踵を返しかけた白雪の手首がまたもや掴まれる。ぐい、と捻られる。ご丁寧に先程と同じ場所だ。
「……ッ、短気だね。わたしは罪人かなにかなのか、な!」
腕を返し、逆に思いっきり捻ってやると、少し力が弱まった。その隙にばっと手を抜く。
「貴様……」
「おい、なにやってんだ」
低くよく通る声。
「兄上!」
「ああ翔馬、久しいな。また背が伸びたな……慶浚、お前女を口説くにしてもやり方ってもんが……、白、雪?」
割りはいってきた黒銀がこちらをちらりと見て、微かに目を瞠った。
「あそこからじゃ髪までは見えなかったが……、化けたな」
ドレスに身を包む白雪を見下ろして、黒銀は唖然としたように呟く。
「だが少し胸元が空きすぎだな……いや、しかしこれはこれで眺めがいいが、他の野郎にゃ見せたくないし……」
ぶつぶつと言っている黒銀を困惑したように見上げる。
「黒銀……」
「え、ああ、すまん。こっちの話だ。で、どうした。まさかこいつにナンパされていたわけじゃないだろ」
じとりと黒銀が慶浚を見た。彼は一瞬嫌そうな顔をしてから、目を伏せた。
白雪は然り気無く右手を背中に回し、小さく首を振る。
「大したことじゃないから。ちょっと風に当たってくる」
早々に踵を返した白雪を、黒銀はやんわりと抱き寄せる。
「おい、お前なんか変だぞ、このところ」
なんで俺を避けるんだ、と彼が耳元で囁くと、きゅっと胸が痛む。
「別に、避けてなんか……離して」
「いいや、避けてる。訳を言うまで離さない」
腰に回された腕に力が籠る。
「黒銀様、お控え下さいませ。皇子である貴方がこのような娘に」
「お前は黙っていろ」
慶浚の咎めを一蹴し、「答えてくれ」とまた囁く。
周りからは非難の視線が突き刺さる。そして、女達の憎悪。
「――皇子さまが流れ者なんかに構わないでください」
なるべく平静を装いそう告げると、腕の力が緩まった。
「し……」
瞠目した彼が名を呼ぶよりも早く、広間を抜け出す。ヒールのせいで何度か転けそうになったが、構わなかった。
廊下を出て、階段の窓から外に飛び降りる。柔らかい土だったので衝撃はなく、ドレスの裾を持ち上げ歩く。
庭だろう。月明かりに照らされたそこは人気がなく、ほっとする。
自分にはあんな華やかな場所は似合わない。
わかっていたのに、酷く心が痛い。
――なんで俺を避けるんだ。
彼の呻くような囁きが耳について離れない。
避けたいわけじゃない。
でも、これ以上馴れ合えば、いずれ来る別れに耐えられなくなる。
魅蜻だって翡翠だって、いずれはきっと……。
とぼとぼと歩いていると、静かに水を上げる噴水を見付けた。月の光に照らされきらきら反射している。
「綺麗……」
だけど切ない。こんなの初めてで、どうしたらいいのかわからない。
噴水の縁に腰掛け、抱えた膝に額をうずめる。
「なーんか辛気臭いねえ」
図上から降ってきた声音に顔をあげることなく、呟く。
「――警備を潜り抜けて王城に侵入するなんて、捕まってもしらないからね……」
「人間なんかに捕まるはずないじゃないか。――随分と浮かれた格好をしている割りには暗いなあ」
すとんと隣に隻影が座ったのが、気配でわかった。
「着たくて着たわけじゃない。苦しいし歩きにくいし」
「じゃあ脱がせてあげようか?」
ぐい、と引き寄せられ、隻影の胸に身体が傾いた。彼からは草木の香りが漂い、不本意ながらも落ち着く。
「……随分と大人しいね、今日はやけに」
「ほっとけ……」
口が悪くなった少女にくつくつと笑いながらも、仔猫のように丸まる白雪をいつになく優しく抱き寄せる。
「夢なんて見ない方がいいんだよ。どうせ裏切られる。ね、このまま僕と行こうよ」
耳元で隻影が囁く。まるで、暗示をかけるように低く、ゆっくりと。
ふと顔を上げると、紅い瞳がじっと白雪を見下ろしていた。
「隻影……」
くしゃ、と草を踏む音が聞こえた。
「――お前は所詮人にはなれないんだよ」
小さく囁いた隻影は胸に唇を落としてから、闇に溶けるようにいなくなった。
「いた、白雪!」
高過ぎず低すぎず、しかしどこか威厳を備えた声音に、顔を上げる。
「翔馬、さま……」
目の前には燭を片手に息を切らした少年がいた。少し怒ったような、困ったような、そんな表情をしている。
「そんな格好で風に当たっていると風邪を引くぞ、戯け」
子供の割りにはやけに大人びた尊大な口調に、力なく笑ってしまう。
「お節介ですね」
「それがわざわざ心配して追っ掛けて来た者に対する言葉か。早々に女どもに囲まれた兄上の代わりに予が来てやったのだ、感謝致せ」
燭台を噴水の縁に置いた翔馬は、 着ていたコートを脱いで白雪に差し出した。
「着ておけ」
差し出されたコートを見つめながら、白雪はぽつりと呟いた。
「わたしが――気味悪くないんですか?」
――お前は所詮人にはなれないんだよ。
隻影の暗示が頭をぐるぐると回る。自分でも情けないほど声が震える。いつもの仮面が、今日は出せない。
「はあ?世迷い言をぬかしている暇があるなら戻るぞ、予は寒い」
強引にコートを白雪に掛け、翔馬は溜め息をつく。
「――そなたはそなただ。己を誇れ。それに、銀髪も悪くはないぞ。月明かりに照らされるときらきらと輝く。そなたの後ろの噴水のように。趣があるではないか」
髪をひと房掬って月明かりに照らす翔馬は、酷く大人びて見えた。
「翔馬、さま……ありがとう」
「な、抱き付くなっ。……そなたは幼子みたいだな」
「うるさいです……あんまり変わらないじゃないですか」
翔馬の鎖骨辺りにに顔をうずめると、黒銀とよく似た香りがした。ほんの少し、微妙に異なるが、安心できる。
「さあ、戻るぞ。腹はまだ満たされていないだろうが」
「わたし……」
「酒の相手くらいたせ。そうじゃないと寒い思いをした割りに合わない」
――翔馬さま。
「ほら、早くしろ」
「――はいっ」
賑やかな広間に、白雪は一向に現れない。不審に思ってきょろきょろとしているさなか、慶浚が現れた。
「黒銀様曰く、放っておいてやれ、と」
どこか不機嫌そうに言った慶浚に、晴花がそっかあと呟く。
――白雪。
彼女は人混みを嫌うことは、知っている。
「珍しいわよね、黒銀様があんなに構うなんて」
晴花の何気無い呟きに、魅蜻は首を傾げた。
「あの美貌でしょ?伊達な粋男にはそりゃ女という女が集まるから、自分から寄らなくても不自由はないと思うんだけど……」
確かに、旅の途中もよく女に囲まれていた。そして彼もまた、慣れたように相手をしていた。
「ほら、また囲まれてる」
晴花の視線の先には、貴族嬢達が我よと黒銀を取り囲んでいる。
「城を開けすぎたツケですね」
隣で翡翠が呆れたように苦笑して呟いた。そう言えば王が謁見の間でそんなことを言っていた気がする。
と、緩やかに音楽が流れ始めた。かと思えば、男女が次々と中心に行き踊り始める。――そうか、舞踏会なのだ。踊るのが当たり前だろう。
「――魅蜻さん、私たちも行きませんか?」
手を差しのべられ、でもと困惑する。――ダンスなんて踊れない。踊ったことがない。
「ダンスなんて翡翠様にリードしてもらえばいいのよ。手取り足取り……腰取り、ね」
「晴花っ」
顔を赤くして叫んだのは魅蜻と、同じく赤面した翡翠。
にやり、と笑う晴花を睨んでから、翡翠は魅蜻の肩を半ば強引に抱くようにし、中心へ向かう。
優しく腰を抱かれ両手片手を握られ、簡単なステップを繰り返す翡翠に合わせて魅蜻も真似をする。
「そうそう、お上手ですよ」
密着した状態なので、翡翠の息が耳に当たる。くすぐったくて、恥ずかしい。
だけど、温かい。
ずっとずっと、こうしていたい、なんて密かに思ってしまう。
――時が、止まればいいのに。
そう願いながら、魅蜻は目を閉じた。
3.END.