なぜこんなことに。
そう思う度、擦られる肌の激痛に呻く羽目になる。
「動かないでくださいませ、白雪様」
様付けされるのも、こんな数の侍女に身体の隅々まで擦られるのも、しかりつけられるのも、白雪には初めてだった。
「い、いた……もうちょっと優しく」
「旅の垢という垢を落とす為ですわ。ご辛抱くださいませ」
と、聞く耳持たずといった様子で腕やら背中やらを擦られる。痛いったりゃありゃしない。そんなに強く擦ると皮がずる剥けてしまいそうだ、なんて鬼のような形相をした女達に言える訳もなく、白雪は黙って項垂れることにした。
朝に黒銀が皇子だということを知り、おそらくは謁見の間を出てから、彼はむっつりとした表情で一言「悪い」と謝り、立ち去った。
残された魅蜻と顔を合わせていると、翡翠が部屋などを手配してくれ、こうして侍女までつけてくれた――白雪は断ったが聞き入れて貰えなかった――のは有り難いが、まだ朝だというのに湯編みから始まり、かれこれ一刻。逆上せてふらふらするものの、この魔の手からは逃げられない。
肩の傷は気遣って湯がかからないようにしてくれているが、身体はごしごしと擦られ、髪は何度洗ったかわからなくなるくらい洗われている。
半ば意識が飛んでいて、気付いた時は髪が乾かし終わったところだった。
「どうぞ」と若い侍女に、汗をかいた冷え冷えのグラスを渡され、ごくごくと一気に飲み干す。蜂蜜が混ぜられた檸檬水だ。――生き返った。
「白雪様の御髪の色はとても珍しゅうございますね」
空になったグラスを受け取った侍女が呟くように言った。白雪よりいくつか上だろうが、まだ若く少し少女の面影が残った侍女だ。
肩上で切り揃えた栗色の髪に、同じ色をした瞳。
「わたしは、その栗色の髪の毛がよかったなあ……」
「ええっ?この色ですかっ?あたしはあんまり……」
「こら、お喋り厳禁。さ、支度に取り掛かりますよ」
侍女の言葉を遮るように入ってきたのは先ほど紹介された侍女頭の千里(せんり)だ。黒髪に白髪が混じっているとはいえ、きびきびした口調と行動が若々しく見せる。
「さ、やりますよ」
ぱんぱんと千里が手を叩くなり、鏡の前の椅子に座らされていた白雪の周りを、侍女達がぞろりと囲む。
――嫌な予感。
その後悲鳴を挙げることになったのは言うまでもなかった。
洋風の外観の城の離れ――木々に隠されるようにひっそりと佇む離れに入るなり、黒銀は溜め息をついた。
ここは昔から変わらぬまま和風で、落ち着きたい時や一人になりたい時は必ず来る場所。
先々代の帝――黒銀の祖祖父の時代はまだどこもかしこも木造の伝統的な古風の建物だったのだが、先代の帝は洋風を好み、元来より保たれていた厳粛な伝統は一掃され、今の有り様だ。
この人目につかない離れだけは放置されており、父が撤去しようかと言っていた。
しかし黒銀は幼い頃からここが気に入っているので、取り壊さぬように念を押した。
今では自分の家のような場所なのだ。掃除も限られた人間にしかさせないし、掃除以外入ることを許していない。離れといっても黒銀一人で使うには広すぎるし、書庫や丁寧に庭まで造られていて、とてもじゃないが自分だけで掃除なんて丸一日あっても終わらないだろう。
洋に彩られた本城から切り離されたような閑静な雰囲気を醸し出しているここが、黒銀は好きだった。
勿論、洋の文化に抵抗があるわけではない。生まれた時から洋の文化に囲まれていたし、さして気にはならないのだが、やはりこっちの方が自分には合っているらしい。
靴を脱いで階を上がり、磨かれた回廊を歩く。朱塗りの欄干にすら塵ひとつ積もってはおらず、思わず苦笑してしまう。
――後で褒美をやらなきゃならないな。
これだけぴかぴかにするのは大層骨が折れる。多分、毎日磨いてくれているのだろう。
至るところに朱塗りの装飾が施された廊下をしずしずと進み、閉めきった私室の襖に手を掛ける。金箔が惜しげもなく散らされたそれを両手で開くと、真新しい畳の香り。
中に入ってどさりと座る。行儀悪く足を投げ出し畳に手をついて、溜め息をつく。
――俺が帝だと?
笑えない。生まれた時から帝は兄、琥珀だと決まっていた。
少々癖はあるものの、品行方正で切れ者の、六つ離れた兄が帝には相応しいと信じていたし、彼が次期帝だと誰もが疑わなかった。勿論、黒銀もだ。
それに比べて好き勝手やってきた自分は、皇子とは名ばかりで、旅を好み時たま城を脱け出しては自由奔放に生きてきた。
継承の儀が決まり滞りなく進んでいたから、帝に――父に無期限で旅をする許可を貰った。だから翡翠を連れ出し、のびのびと国を回っていた。
それが今さらお前を帝にするなどと言われても、納得出来る筈がない。断固お断りだ。それに、自分は国の頂点に立てるような人間ではない。
「くそ、兄貴……どこに行ったんだよ」
ごろりと仰向けに寝転がり、ぼやく。
――白雪も魅蜻も、驚いているよな。
自分が皇子などと言ったことはなかったのだから。
自分は特に気にしないが、皇子だとばれるとそれまで対等に付き合ってきた者達は簡単に頭を下げてひれ伏す。まさか皇子ともあろうものが町や村をほっつき歩いているなんて思わないのだろう。
宮中にいてもあからさま媚を売りへらへらとへつらう人間ばかり。そんなに権力がほしいのか。
まさかあの二人がへつらうなどとは微塵にも思わないが、対等に扱ってくれるかはわからない。やはり気は使うだろう。
「あー、くそ、面倒だ……」
舞踏会にも出なきゃならない。
「――けど、白雪のドレスアップ姿か。うん、悪くはないな」
なんて、思ってしまう自分は現金なんだろうが、楽しみなものは仕方ない。
しかし、ここ数日会話らしい会話が出来ていない。慶浚と晴花が来たあたりからだろうか、こうよそよそしいというか、拒絶されているような気がするのだ。
――触れられたくないの。
彼女は確かにそう言った。
そりゃ恋仲でもないし何故かなんて聞く権利はないが、最近漸く少しだけだが甘えるようになってきたし、触れても逃げようとはしなくなったのに。
「……なんだってんだ」
魅蜻は鏡に映った己の姿に驚愕した。
苦しい思いをしてコルセットを締められた時は泣きそうだったが、鮮やかな紫色のドレスに結い上げられた髪、化粧を掃いた顔。
何より、このさらさらとした繻子という生地がふんだんに使われたドレスは見目麗しく、着心地も堪らなく良い。
腰から床に広がる裾は歩くだけで掃除出来そうだと思うのだが、床には生憎塵ひとつさえ落ちてはいない。
歩くたび足にまとわりつくので動きにくいとは思うものの、高揚感が勝りそれどころではない。
「御素敵でございます、魅蜻様」
様、なんてつけられて照れていたのは最初だけで、良くしてくれる侍女達にもすっかり慣れた。
なんせ、朝の湯編みから始まりもう夕暮れ時まで、片時も離れず側にいたのだから、慣れるなという方が無理だというものだ。
そんなことを思っていると、扉がノックされた。朝早々から離された白雪かと思ったが、入ってきたのは翡翠だった。
こちらを見るなり息を呑んで固まる。
そんなに似合わないのだろうか、と不安になる。確かにふた月、み月前までは山奥で暮らしていた田舎者なのだ。そんな田舎者がどれだけ飾り立てても滑稽にしか見えないかもしれない。
それに比べて、白い正装に身を包んだ翡翠は、瞬きを忘れるくらい格好よかった――いや、格好よいと言うよりは、綺麗なのだ。寸分狂うことのない端麗な顔に、艶やかな金髪を垂らしている。
互いが互いに見惚れていたが、先に行動を起こしたのは翡翠。
ゆっくりと近付いてきては、手袋がはめられた魅蜻の手をとり、指先に薄い唇をつける。
「ひ、翡翠……?」
かああ、と頬が染まっていくのが自分でもわかった。
「――綺麗です。どこぞのご令嬢かと思いました」
そんなことを躊躇いもなく言える翡翠に、魅蜻の顔はますます赤くなるばかり。
「翡翠様の口説き文句、滅多に聞けないわよね。貴重だわ」
「……やめておけ晴花。無粋だぞ」
と、入り口からふたつの声。慌てて目をやると、ドレスアップが済んだ晴花と慶浚。
淡い緑のドレスを着た晴花は髪を下ろしていて、ぐっと大人っぽく見える。
「晴花!」
ぱっと翡翠の手からから手を引っこ抜き、晴花に駆け寄る。
「き、きれい……!」
「ふふ、ありがとう。魅蜻ちゃんだって綺麗よ。愛らしいわ」
きゃいきゃいと話す女二人を横目に、翡翠は小さく息を吐いた。
(タイミング、悪すぎます……)
1.END.