「気付いてなかった?嫉妬してたでしょ?その感情は、恋なのよ」
晴花の声にはっと我に返る。
「嫉妬……恋……」
「あたしにも好きな人はいるから、わかるんだ。好きな人が他の女を気にしていたら、そりゃもう身も心も焦げそうになるものね」
ゆっくり歩き出した晴花に、魅蜻もつられるように歩き出す。
「あたしと翡翠様は幼なじみなの。あたしにとっての翡翠様は兄様みたいなものかな。翡翠様だって、あたしを妹のようにしか見ていないわ」
それを聞いた途端、さっきまでたぎっていた何かが嘘のように引いていった。
「そう、なんだ……」
「ああ見えて翡翠様て天然だから、もっと押し攻めちゃいなよ」
くすくすと笑う晴花に、魅蜻は顔を赤くして首を振った。――なぜだかとても恥ずかしい。
「あ、いたいた翡翠様!おーい、翡翠様ーっ!魅蜻ちゃん連れてきましたよー!」
その名を聞くだけで、びくりと身体が強張る。
おそるおそる顔を上げる、と同時にふわりと抱き締められた。
「ひ、翡翠……っ?」
思わず声が裏返ってしまった。
「すみません、貴女を放って……、何事もなくて良かった。本当に、すみません」
「え、と、大丈夫、だから……」
こんな風に謝られてしまえば、怒るに怒れない。というか、自分の気持ちに気づいてしまった今、早鐘を打つ心臓が翡翠に聞こえないか心配で、それどころではないというのが心情だ。
「あのぉ、翡翠様?」
と、隣から晴花の控え目な声。
「ここ、町中ですから……」
「……!」
うっすらと顔を赤くした翡翠が、ようやく離してくれる。
ふと晴花を見ると、「ね?天然でしょ?」と言わんばかりに片目を瞑っていた。
それに思わずくすりと笑ってしまう。
「――!笑った!やーん、可愛いっ!」
驚いたように目を瞠った晴花が、ぎゅっと抱き付いてきて、びっくりしてしまう。
「せ、晴花、さん……?」
「晴花でいいわよう!もうっ、友達でしょっ!」
「友達……」
呟くと、心がほんわり温かくなった。友達なんていなかったから、なんだか新鮮だ。
ふふ、と笑った魅蜻と晴花を見比べ、翡翠は首を傾げた。
(……いつの間に仲良くなったんでしょう)
女性とは不思議だ、とつくづく思う翡翠だった。
脱衣室から出ると、手拭いと洋服が置かれてあった。店主だろう。
有り難く思い片手で身体を拭き、服に袖を通す。踝までの丈のゆったりとしたワンピースだ。
ふう、と息をつき長い銀髪を掻き上げる。
さすがに、湯を被れば激痛が走った。今もかなり痛い。
だが、さっぱりとはした。風呂は好きだ。
「……あ」
包帯の代えを忘れた。――まあいいか、上で巻こう。
髪を丁寧に拭いてから、二階に上がる。襖を開けると、壁に背を預け腕を組んで座った黒銀の姿。その表情はどこかむっつりしていて、機嫌が悪そうなのは一目瞭然だ。
しかしどうしたのかなんて聞かずに中に入り、翡翠が買ってきてくれていた、紙袋に入った包帯を取り出す。
「……俺がやる」
それまで黙っていた黒銀が、ゆっくり近付いてきた。褥に座れと目で合図され、白雪は少し迷ったが素直に従った。確かに片手で包帯を巻くのは少々骨が折れるし、やってくれると言うならわざわざ断ることもない。
「ちょっと我慢してくれよ」
と言うが早いが、襟から胸にかけてのボタンを器用に外され、肩下まで服をずらされる。
引き攣った傷を険しい顔で見つめてから、彼は「痛むか」と聞いた。
「少し……」
「こんな状態で風呂なんか入るな、馬鹿」
そう言った口調とは裏腹に、優しい手付きで傷口に軟膏が塗られる。
びくり。
思わず身体が強張る。
「悪い、痛かったか?」
「そうじゃ、ない。大丈夫……」
そうか、と呟いて更に優しく軟膏を塗っていく。
どうやらこれも翡翠の調合したものらしい。彼は調合師の資格を持っているらしく、おそらく腕は確かで、そこらに売っている薬よりも効果はある。――飲み薬が苦いのは難点だが。
そんなことを思っていると、包帯がくるくると器用に巻かれていく。ごつごつした手の割りには細かなことが得意で、白雪よりも手先は器用かもしれない。
白雪も一人旅のおかげか、大抵のことは一人で出来る。が、あまり自分に構ったことはなかったので、細々としたことはしない。
傷だって痛みを我慢すれば、放っておけば治ったし、髪だって面倒だからひとつに纏めていれば邪魔にはならない。
――うーん、我ながら雑かも。
なんて今更なことを思っていると、包帯が巻き終わったのか黒銀の手が離れていった。
「白雪」
「ん?」
顔を上げると思いの外黒銀の整った顔が近くにあったので、目をぱちくりとしてしまう。
「……どうしたの?」
「……いや。なんでもない」
彼にしては歯切れの悪い台詞におやと眉を上げるも、そうと呟いた。
「黒銀様」
そこで音もなく現れた慶浚の呼び掛け。気づけば襖の前に立っていた。
「……お前な、ノックくらいしろっての」
呆れたように呟き白雪から離れた黒銀は、さっと服を整えてくれた。
「何の用だ」
「馬車が一台しか用意出来ないそうです。少し窮屈ですが、四人乗りで大丈夫でしょうか。御者は私と晴花が」
膝をついて淡々とした口調で喋る慶浚に、黒銀はああとさして興味無さそうに頷いた。
「構わん。安全ならな」
「は」
一礼した彼は音もなく出ていく。
そんな姿をじっと見つめていると、ぐいと右腕を引っ張られ、力が抜けていた身体は簡単に黒銀の胸にぽすんとぶつかった。
「黒銀……?」
「そんなに見つめるな」
少し不機嫌そうな声音に首を傾げつつ、うんと呟いた。
「……えらく素直だな」
別に、と呟いて離れようと身じろぎするも、黒銀の腕からは抜け出せない。傷に触れないようにしてくれているものの、しっかりと抱き締められているのだ。
「黒銀、離して」
「駄目だ。離したら起き上がるだろ」
そんなの当たり前だ。ずっと寝ているのは暇すぎる。
黙りこんだ白雪を、肯定とみたのか黒銀は褥に寝転がる。――もちろん白雪も巻き沿いを食らうわけで。
白檀の高貴な香りが鼻をくすぐり、力強い腕からは熱を感じる。
安心してしまいそうな己に叱咤して、白雪は腕から抜け出そうと身体を捩ったり身じろぎしたりをしていた。
――慣れたくない。
慣れてしまえば、いざ離れる時に心に支障が出てしまいかねない。惨めな程にすがってしまうかもしれない。そんなの、嫌だ。
「なあ、どうしてそんなに嫌がるんだ」
それを見かねた黒銀が、離すまいと腕に力を入れながら、少しだけ硬い口調で問うてきた。
「……触れられたくないの」
「――ッ!?」
息を呑む気配が頭上でして、白雪は俯きながら小さく唇を噛んだ。
――違うのに。本当は、そんなの嘘なくせに。
――これ以上期待させないで。ずっと傍にいるわけじゃないんだから。慣れちゃ、だめなんだ。
交わることのないそんなふたつの思いが交差し、白雪を苦悩させる。
「そうか。だったら大人しく寝ておけよ」
すっと呆気ないほど簡単に離れた黒銀は立ち上がり、白雪が手を伸ばすよりも早く部屋を出ていった。
襖が閉まる音でさえ少女の身体をすくませるには充分だった。
褥で身体を猫のようにして丸まり、唇をきつく噛み締めた。
何故だか心臓のあたりが痛い。締め付けられるような、そんな感覚。
それが、意思とは裏腹のことをしているからという自覚がないほど鈍くはないし、だからといって甘えるわけにもいかないことがわからないほど子供でもないのだ。
ただ、我慢すればいい。いままでだって、そうしてきたように――。
3.END.