賑やかな町で穏やかな時を破ったのは、背後からの一つの高い声音だった。
「あーっ!」
何事かとびくりと肩を跳ね上げ、魅蜻は翡翠と振り返と、高いところで金色の髪を二つに纏めた少女が、こちらに向かって走ってきた。それも、笑顔で。
――誰?
勿論魅蜻にそんな知り合いや、ましてや友達もいないので、魅蜻は身体を固まらせる。
もしかして、人違いかもしれない。
そう思っていると、少女は確かに二人の前でぴたりと止まった。
「お久し振りです!」
大きくくりくりした青い瞳が印象的な少女は、紙袋を両手に抱えながら、大きく頭を下げた。当然中に入っていたものは飛び出すように落ちるわけで。
なにやらよくわからない包みやら本やらが、ばさばさと音を立てて地面にばらまかれた。
「ああっ、大事なものなのに!」
慌てて拾い始める少女に、魅蜻は手伝うことも忘れて、ぼんやりと考える。
――翡翠、様?翡翠と知り合い、なんだよね。
「まったく貴女は……そそっかしいところはいつになっても直りませんね」
呆れたように呟き、同じようにしゃがんで落ちた物を拾った翡翠は、少女にどうぞと手渡す。
「あ、ありがとうございます」
そそっかしいと言われた少女はむっとするも、本を渡されるとその表情は愛らしく綻んだ。
「しかし、どうして貴女がここに?」
立ち上がった翡翠は、紙袋を抱え直した少女を見下ろし、少し怪訝げな顔をする。
「まさか偶然、な訳ありません、よね」
すっと翡翠の切れ長の目が細まり、魅蜻は思わず少女を見た。
その言い方だと、まるでわざわざ翡翠の元に来たように聞こえる。
すると、少女はばつの悪そうな顔を見せた。――図星、なのか。
「えっと、ところでそこの子は?」
視線を泳がした少女が捉えたのは、困惑した表情の魅蜻だった。
「…………」
「え、と……」
口を固くつぐんで顔を強張らせる魅蜻に困ったのか、少女はちらりと翡翠を見上げた。
「彼女は魅蜻さん。私達の旅の仲間です」
そう言って柔らかく微笑んだ翡翠に、少女はおやと眉を上げてこちらを見てきた。
「旅の仲間、ねえ……。私“達”ってことは」
「ええ、黒銀もいますよ、勿論」
意味深に呟いた少女に、翡翠はにっこりと笑い、“勿論”という言葉を強調して返した。
少女の青い瞳が、じろじろと魅蜻の頭のてっぺんから爪先までを品定めするかのように捉える。
その視線があまりにもぶしつけで、人見知りの魅蜻はますます身体を縮こまらせ、ついには翡翠の後ろの隠れてしまった。――だって、怖いんだもん。
「こら、晴花(せいか)。失礼ですよ」
そんな少女――晴花というらしい――に翡翠は叱るような口調でやんわりとたしなめた。
「……すみません。えーと、あたしは晴花よ。魅蜻ちゃん、だったわね。よろしく」
別によろしくするようなこともないのだが、差し出された手を無下にするような度胸なんて魅蜻に持ち合わせているわけもなく、小さく握手を返した。
「で、何故貴女がここに?」
いつものように柔和な口調なのに、見上げた翡翠の顔はどこか厳しいもので、上手くはぐらかされるわけもなく、晴花を静かに見つめる。
それに耐えきれなかったのか、諦めたように小さく息をついた晴花。
「……連れ戻せとの命令で。貴方様方を御迎えに上がりました」
途端に仰々しい口調となった晴華に、翡翠は息を呑んで、それから難しい顔を見せた。
「……私じゃ返事し兼ねます。黒銀の元に案内します。貴女一人で?」
その返答に少しほっとしたのか、強張った表情を少しほぐし、晴華は「いえ」と小さく首を振った。
「多分慶浚(けいしゅん)、町のどこかにいるはずです。あまりにも面倒だから置いてきちゃいました」
また知らない名前。
魅蜻はただ黙って二人のやり取りを見るしか出来なかった。
「供を置き去りにしたまま、貴女は一人買い物とは……」
「だってあたし一人でも平気です。なのに慶浚ったら着いてきて……」
まったく、とぷりぷり怒る晴華に、魅蜻はようやく柔らかい微笑を浮かべた。
「本当に、相変わらずですね、貴女は」
くすり、と笑い、翡翠は晴華の頭を優しく撫でた。
「もう、あたし子供じゃないんですからっ」
とは言いつつも、嬉しそうに笑う晴華。
――あれ?
魅蜻は首を傾げた。
――なんだろ、これ。
突然、胸が締め付けられるような、そんな痛みを感じた。
さっきまで何とも無かったのに。
これは一体どういうことだろう。
「魅蜻さん――魅蜻さん?」
「きゃ……」
ぼんやりとしていると、視界いっぱいに翡翠の顔が現れ、 思わず後ずさってしまう。
「大丈夫ですか?」
心配そうにこちらを見下ろす翡翠に、こくこくと慌てて頷く。
――びっくりした。
どきどきと早鐘を打つ胸を押さえながら、小さく溜め息をつく。だが、もう苦しくはない。
――変なの。
「すみません、魅蜻さん。息抜きのつもりでしたのに……」
「私なら大丈夫……。大事なこと、でしょ?」
気遣う翡翠を見上げて、小さく頷いてみせると、彼は苦笑して首を縦に振った。
「じゃあまず仕方ないけど慶浚を迎えにいきましょう――どこにいるかは知らないけど」
本当に、仕方ないといった表情の晴花は、ぼそりと付け加え、歩き出す。
その後を歩く翡翠を、魅蜻も慌てて追いかけた。
置いていかれないように翡翠の隣を歩きながらも、彼の横顔をちらりと盗み見る。
滅多に見せない、穏和な彼の顔を浮かぶのは難しい表情。翡翠の瞳は、目の前を歩く少女の小さな背中に向けられている。
二人は一体どういう関係なのだろうか。
彼女は翡翠を“翡翠様”と呼び、その表情からは少なからず慕っていることは一目瞭然。
金色碧眼。彼女も西の国の出なのだろう。目鼻立ちが整っていて、可愛らしい。
自分とは違い、華やかだ。
もやり、と胸に何かがつっかえたような、そんな不思議な感覚がする。
やっぱり変だ。
そう呟いた時に、前を歩いていた晴花がそれを掻き消すような大声を出した。
「あ、慶浚。おーい慶浚!」
少女が叫ぶと、時計台の下で腕を組んで立っている男が ゆっくりと顔を上げた。
黒に近い藍色の髪に、金色の鋭い瞳。
翡翠達が近付くと、彼は片膝をついて拳に手をあて頭を下げた。
「お久し振りです、翡翠様」
低い声でそう挨拶をした男、慶浚に、翡翠は小さく頷いた。
「お久し振りです慶浚さん。立ってください」
翡翠の言葉に応じるようにゆっくりと 立ち上がった慶浚は、ちらりと魅蜻を見てから、視線をさ迷わせた。
「黒銀は武器屋にいますよ」
教える翡翠に、そうですかと呟く慶浚の顔は、無表情。しかし、眼光は鋭い。
一瞬彼の視界に入った瞬間、怖そうだと思った。
「彼は李 慶浚。無愛想で怖そうに見えるけど、実はその通りの人よ」
と、晴花が紹介してくれた。
「……」
「こら、魅蜻さんが怯えているでしょう。大丈夫です、彼は中々思慮深い方で、怖くはありませんよ」
自分の背中に隠れた魅蜻の頭を翡翠があやすように撫でると、説明してくれた。
「そしてこちらは魅蜻さん。旅の仲間です」
翡翠が紹介すると、慶浚は小さく頭を下げた。
「よーし、それじゃあ黒銀様の元へと向かいましょう!」
晴花が元気よく腕を上げて、持っていた紙袋を慶浚に押し付けてから、歩き出した。
武器屋に入ると、店主は武器の手入れをしていた。相変わらず客は一人いない。
「おう、らっしゃい……ああ翡翠さんに魅蜻嬢ちゃん。それにそっちは……店の客じゃあなさそうだな」
「どうも。黒銀様は……」
「二階にいますよ。上がらせても宜しいでしょうか」
きょろきょろと店を見渡す晴花に、翡翠はカウンターの奥にある階段を見てから、店主に確認する。
「ああ、構わねえ」
欠伸を噛み殺した店主に頷き、二階に上がる翡翠の後ろを、魅蜻も着いていった。
END.