「お前も出ていっていいぞ。ご苦労だったな」
黒銀は白雪の傍に腰を下ろし、一郎に視線をやった。
だが躊躇う素振りを見せる男に、後は俺が看病すると言いつつ、とっとと出ていけと、睨むように目で伝えた。
「そ、そんじゃ、俺はこれで……」
と、青い顔で一郎は腰を上げ、逃げるようにそそくさと出ていった。
ぴしゃりと襖は閉められ、急に部屋が静まり返る。
ちら、と白雪を見ると、野の花の束に鼻をうずめ、目を細めている。
そんな無邪気な少女を見て、ちくりと胸が傷んだ。
俺はまた、護れなかった。
そんな罪悪感が胸を渦巻き、黒銀は奥歯を噛み締めた。
「……だいじょーぶ?」
いつの間にかこちらを覗き込んでいた白雪は、少し心配そうな表情で。
「それはこっちの台詞だ」
起き上がろうとした少女を押し留め、乾いた笑みをうかべた。
「わたしなら大丈夫だよ」
ほら、また。
そうやっていつも心配かけまいと、笑う。それが余計心配になるとは知らずに。
「いつもよりは治りが遅いんだけどね、こんな身体だから、人より早く治るの。ますます……」
化け物じみてるでしょ。
そう言ったように聞こえた。
以前怒ったから、声に出しては言わないが、少女の傷ついたような笑い方が、そう物語っていた。
「わたしね、昔は皆と同じ人だった。……ううん、人だと思っていた」
熱のせいか、ぼんやりと古びた天井を見上げながら、白雪は珍しく過去を語り始めた。
「わたし、研究所にいたの。詳しい場所はわかんないけど、物心ついた頃には、いつも真っ白な部屋にいたんだ」
そこは殺風景で、窓もない酷く人間味のない部屋だったという。
「そこにはね、子供は多分わたしだけで、大人はみんな白い服。部屋から出しては貰えなかったけど、毎日大人が来るの。沢山の機械を持って」
それでね、と白雪は目を細めて続けた。
「変な機械を身体中に繋がれて、とても苦しくなるんだけどね、終わったら、いっぱいお菓子くれたの。偉いねって、笑ってくれたの。だけど……」
頭を撫でられたことはなかったなあ、と、呟くように少女は言った。
「でもね、それが、嬉しかった。――――……どれだけ引き攣った作り物の笑顔でも、そのお菓子に沢山の薬が混ぜられていたとしても」
黒銀は息を呑んだ。
胸になんとも言い難い感情が込み上げる。
「そうしてわたしは十歳になった時に、初めて部屋から出して貰えたの」
連れていかれたのは、駄々広い空間だったらしい。
「そこで、力を使ってみろって。だけど、よくわかんなかった。じっとしていると、ずっとガラス張りの部屋の外にいた男の人が、我慢を切らしてやって来て、わたしをぶったの。するとなんと不思議、部屋に亀裂が入り、壁に大きな穴が開いた。建物が、崩れた」
黒銀は拳を固く握りしめながら、黙って話を聞いていた。
「みんなわたしを化け物だって……。今まで隠していた畏怖の感情を剥き出しにして責めるの。それが怖くて、わたしは逃げた」
それから、ずっと一人で旅をしていたのだ、と白雪は言った。
「外の世界は綺麗だね。沢山の命があって、いろんな色があって、美味しい食べ物もある」
少女は笑った。とても、無邪気に。
「……ごめん、つまんなかったよね。過去の話なんて」
そう言って笑う白雪の右手を、黒銀はぎゅっと握り、自分の額に当てた。
「つまんなくなんかないさ。俺は、お前のことを知りたい、もっと、沢山」
自分の喉から出たのは、自分でも驚くくらい掠れて情けない声だった。
――どうして笑えるんだ。
「黒銀?」
「俺は嫌だと言ってもお前に触れるし、美味い菓子だって沢山食わしてやる」
白雪はきょとんとしてから、小さく吹き出して、そんなに食べたら太っちゃうよと言った。
「……ありがとう、黒銀」
優しいね。彼女は呟くようにそう言った。
違う、優しいのはお前なんだ。
「なんだか湿っぽくなっちゃったね」
そう言う前に、白雪は明るい声音を出した。
「あのね、わたし、今とっても幸せだよ。魅蜻に、黒銀や翡翠に出逢えて、こうして一緒に旅が出来て、とても、幸せ……」
「俺も、幸せだよ」
こつん、と自分の額を白雪のそれにくっ付ける。
長い睫毛のしたから大きな瞳がこちらを見上げる。
「……熱上がってるじゃねーか、阿呆」
ぼそりと呟くと、白雪は「げ。」と、悪戯がバレた子供のように唸った。
ゆっくり離れて溜め息をつき、紙袋からひとつみかんを取りだし、皮を剥き始める。
「身体が丈夫でも、怪我したら痛ぇし熱が出たら辛い、だろ?俺達ゃ何も変わらねーよ。一緒だ」
「いっ、しょ……むぐ」
呟いた少女の口に、千切ったみかんをひとつ押し込んだ。
「ん、むむ……」
みかんすら飲み込むのが辛いのか、一生懸命嚥下する白雪は、ようやくごくりと飲み込むと、大きな溜め息をついた。
「美味しいんだけど、ごめんね。食欲ないから、それ、黒銀が食べて?」
弱々しく言った白雪に、「食べなきゃ治るもんも治んねーぞ」と返して、またひとつみかんを千切り、自分の口に放り込む。
一度だけ噛むと、甘酸っぱい味が口内に広がった。
しかしそれを飲み込む前に、白雪に覆い被さる。
「くろが……んっ」
桜色をした唇に自分のそれを重ね、果汁だけを飲ませる。
「んん……」
最初は嫌がった白雪だが、飲み下すまで話してくれないとわかると、諦めたようにこくりと喉を上下させた。
それを見て離すと、もう一度みかんを含み、同じようにしてやる。
何度も繰り返しているうちに、白雪はまるで、親鳥から餌を貰う雛のように、身を委ねた。
黒銀はあらかじめ用意されていたコップの中身を口に含み、睫毛を伏せて息を整えている白雪に覆い被さるようにキスを――口移しをする。
「んんっ……!?ん、んーっ!」
と、突如白雪が暴れだす。それもそのはず。少女に飲ませているのはみかんの果汁でもなければただの水でもない、そう、水に溶かした粉薬なのだから。それも、少量の水に溶かしているから、苦さはそりゃもう半端ない。
しかしそれを見越し、がっちりと少女の頬を両手で押さえているから、白雪は黒銀から逃げられるはずがなかった。
「ん、んーっ!!」
頑なに拒んでいた白雪だが、黒銀がぴったり重ねた唇を、飲むまで放さんとしていると、息苦しくなったのかようやくごくりと嚥下した。
「あー、苦ぇ……」
唇を離した黒銀は、残りのみかんを口に放り込み、口直しをする。
「卑怯!黒銀の馬鹿!!」
すると、白雪の罵声が飛んできた。
「おいおい、俺は翡翠に頼まれて手伝ってやったんだ。感謝されても罵声される覚えはないぜ。」
にやり、と笑って言うと、顔を真っ赤にして涙をたっぷりと目に溜めた白雪が、きっと睨んできた。――それすら愛らしいと思う俺は重症だろうか。
「だからって、こんなやり方……」
まあ、邪な感情がなかったとは言い切れないので、そこは笑って受け流す。
「言っただろ?俺はお前に触れたいんだって」
上気する顔に黒銀は顔を近付け、濡れた唇を指でなぞると、白雪はぴくりと睫毛を震わせた。
「――嫌か、こういうの」
嫌か、なんて。恋仲でも何でもないくせに、どの口が物を言う。と、内心自嘲しながらも、じっと白雪を見つめる。
「嫌かって聞かれると、わかんないけど……。でも、隻影と違って黒銀は温かいから、安心する」
嬉しいはずなのに、聞きたくない男の名前に、思わず眉がひそまる。
「だったら、これからはこーゆーの、俺以外の奴とするなよ?」
「こーゆーの、って……」
首を傾げる白雪に軽いキスを落とすと、少女は目を瞬かせた。そしてうっすら頬を染める。
「なんか、恥ずかしいよ、これ」
恥じらいはあるみたいだが、そもそもこの行為がなにを示すかはわかっていないらしい。――それもそうだと、黒銀は思った。こうしてこの少女を愛し慈しむ者はいなかったのだから。
――あの野郎のは事故だ。
隻影の件は無理矢理そう納得することにした。本当は思い出すだけで、腸が煮えくりかえそうだが。
「これはな、お前が好きだっつー意味を表すんだ」
真面目な顔をして、間違ってはないことを純粋な少女に教える。
「じゃあ……」
「ただし、男と――いや、するのは俺だけだ。魅蜻には精々ここだな」
と、赤く色付いた頬をつんと指で突っつくと、白雪は首を傾げた後、素直は頷いた。
「なんだか、素敵だね。言葉がなくても伝わるんだもん」
そう言って、少女は笑った。純粋に、あどけなく。
「黒銀はわたしの知らないことを、いっぱい教えてくれる、ね……」
白雪の語尾が小さく消えていく。見れば、ゆっくり瞼を下ろしていた。
「……おやすみ。いい夢見ろよ」
完全に眠った白雪の額を優しく撫で、黒銀は微笑を漏らした。
今はまだ、この関係でもいい。この少女が、笑ってくれるならば。
3.END.