キリリアに来て四日目。


今日も早朝から出掛ける。

寝ている三人を起こさぬように、打掛を羽織り、腰に刀を差して、宿を出る。

本来なら四日も同じ町や村に留まり続けるのは、余程のことがなければ無いのだが、今回は別だ。

魅蜻には退屈な思いを──いや、多分それだけではないだろうが──させているだろう。

だがしかし、それも今日で終わりだ。

そう、今宵は満月。

つまり、隻影が現れる日。

早々に決着をつけねばならない。

まだ薄暗い空を睨みあげて、静かに決意した。

それからまだ人気のない町を出て、町の周りをぶらぶらして暇を潰す。

これも、三日目。

あの日、黒銀はそれ以上何も聞いては来なかった。

だが明らかに怒っていて、声を掛けづらかった。

そしてタイミングを失い一日が過ぎてみると、余計に話し掛けられなくなって。

そうしているうちに、一言も交わさないまま、今に至る。

キリリアに一番近い林に入り、ざかざかと枯れた葉達を踏みながら歩く。

無意識に溜め息がこぼれ、足取りが重くなり、やがて止まる。

傍の木の幹を背凭れに座り込み、もう一度、溜め息をつく。

そしてそっと首筋を触り、また溜め息。

今朝鏡で見てみると、だいぶ薄くはなっていたが、まだ消えてはいなかった。

黒銀のあの怒ったような、苦虫を噛み潰したような、そんな顔が浮かんだ。

やはり隠したことがいけなかったのか。

勘づいているかもしれない。彼はああ見えて中々鋭いから。

力なくだらんと手を下ろし、目を閉じた。





目を覚まし、大きなソファーから起き上がる。

「おはようございます、黒銀」

一人掛けのソファーに座り読書をしていた翡翠が顔を上げるのが目に入った。

「……ああ」

立ち上がって、洗面所でばしゃばしゃと無造作に顔を洗うが、心に溜まったもやもやは増していくばかりだった。

──くそ。

内心悪態をつき、桶に入った水を頭にぶっ掛けた。

「冷てェ……」

この時期だ。当たり前なのだが、それでも少しはすっきりとした。

手拭いでがしがしと乱暴に頭を拭き、髪を後ろに掻き上げる。

上衣を着て、自分が寝ていたソファーの傍に置いてある刀を差し、ドアに向かう。

「……また出掛けるのですか?」

翡翠が、今度は本から目を離さずに聞いてきたので、ああと短く答え、ドアを開ける。

「……飯は好きに食っといてくれ」

「……わかりました。お気をつけて」

ただぶらぶらと歩くだけだから、別に気をつけるようなこともないのだが、もう一度ああと返事をしてから、宿を出て、時間を潰した。

別に白雪がいないから宿にいてもいいのだが、何となく落ち着かないのだ。

じっとしていたら、嫌でも思い出してしまう。

あの紅い痣と、白雪の“笑顔の仮面”。

出逢った時と何らかわらぬ、あの顔。

近付けたと思っていたのに。

そう思っていたのは自分だけだったのか。

「……誰だよ」

その細い首筋に、そんなもんつけた奴は。

胸が焦げそうな程苦しくなる。

今まで女にこんな感情抱いたことはなかった。

女は嫌いじゃないし、寄ってくる女はちゃんと相手してきた。

女の悦ばせ方も知っているし、女が言われて嬉しい言葉など挨拶程度にすらすらと出る。

だが、白雪は違うのだ。その辺の、媚を売る女達とは。

彼女を前にするといくら思っていても誉め言葉はいつもの調子みたいに出ないし、どちらかと言うと白雪の方が上手なのだ。

最初は、浮世離れした容姿に興味を持ち、声を掛けた。

だけど見た目とは裏腹に、強気で、仮面をつけた少女に惹かれるまでに、時間はそうかからなかった。

情けないことに、少女一人にここまで振り回されるとは思っていなかったが。

「……俺、重症だな」

額を押さえて、思わずはっと乾いた笑みが漏れた。

いつだって、何をしていたって、考えるのは白雪のことばかり。

──謝ろう。

そう思ったのは、もう日も暮れた頃だった。

しかし、宿にも、町のどこにも、白雪はいなかった。

その時初めて、ぞわりと何か嫌な予感がした。





目を開けた時に、真ん丸の月が目に入った。

──ああ、寝てしまっていたのか……。

確かに毎日ほとんど寝ていなかった──否、眠れなかったから。

半日同じ体勢で寝ていた為、身体がぎしりと軋んだ。

「いた……」

身体もすっかり冷えきってしまっていた。

腕を擦りながらも、ぼんやりと満月を見つめる。

白銀の満月。月明かりが眩しいほどだった。

と、その時視界に黒い髪が目に入り、どきりとした。

「くろ……」

「こんばんは、白雪」

耳元で囁かれ、背筋がぞくりとした。

咄嗟に振り返り様摺り足で一歩下がり、刀に手をかける。

「やだなあ、そんな物騒なものはしまいなよ、満月のお嬢さん」

動じもせず、へらりと笑いながら白雪の前に立った隻影。

「それは君次第だよ、隻影」

「おや、名前を覚えてくれてたんだ。嬉しいなあ」

そんな暢気な態度に、白雪は目を細めた。

「何の目的で、わたしの前に姿を現す?」

相変わらず刀に手をかけたままの白雪は、じっと隻影を捉えたまま口を開いた。

「──前も言っただろう?僕は、この国を滅ぼすのさ。その為には、お前の力がいるんだよ、白雪」

「悪いが、前も言ったはずだよ。わたしは国を滅ぼすつもりはないと。勿論、君の仲間になるつもりも、ね」

はっきりとそう言うと、隻影はにやりと笑った。

「それにさ、僕、興味があるんだよね」


何に、と聞く前に、隻影の姿が視界から消えた。

咄嗟に抜刀するが、気が付いた時には背後から羽交い締めされていた。

刀を持った右手の首を意外にも大きな手に握られ、あまりの痛みに刀が手から滑り落ちた。

「────ッ」

「化け物と化け物から産まれた子供は、どんな凄い化け物になるんだろうね」

ふっと耳に息を吹き掛けられ顔をしかめた刹那、身体から力が抜けて、膝から崩れ落ちる。

──しまった!

そうだ、彼は人の気を吸い取る力を持っているのだ。

気は人の精神の源でもあり、命の源でもある。

つまり吸い取られすぎると、死んでしまうかもしれないのだ。


さりと冷たい地面に押し倒された。

「そのカオ、そそるなあ」

目を細めて微笑する隻影に、ぞくっとした。

「く……離れろっ!」

咄嗟に地面に落ちた刀に手を伸ばすものの、手首をがっと押さえ付けられる。

内心舌打ちして隻影を睨み上げると、残忍な色を宿して、まだ少年とも言えるその顔に笑みを浮かばせていた。

「僕さあ、ずーっと独りぼっちだったんだよね。お前ならわかるだろう、同じ化け物なんだから」

「……──!」

はっと、彼の瞳を見つめた。

「……でも、ようやく見付けたんだ。僕と同じ立場の、同じ存在が」

──ああ。

「ねえ白雪。一緒に復讐しようよ。僕達を苦しめてきた国を。……白雪?」

気が付けば彼の頬を、空いている手でそっと触れていた。

「……そうだね、一緒なんだ、君とわたしは」

「白雪……」

「ずっと独りぼっちで、寂しかったんだね」

まるで、魅蜻と出逢う前の自分のように。

笑うことしか出来なかった自分のように。

「だけど、復讐なんてものは間違ってる。それだけはしちゃ駄目なんだよ」

そう言うと、隻影の漆黒の瞳が鋭くなった。
黒銀と同じ髪の色なのに、全然似てないと思った。

「どうして?僕達を殺そうとするんだよ。わざわざ忍や、傀儡師を使って」

「でも、死んでない。……確かにほぼ毎日送られてくるから、面倒だけど」

そりゃあ魅蜻が狙われた時は、本気で腹が立ったけど。

「だけど、国に復讐するってことは、関係ない人たちを巻き込むことになるでしょう?──それだけは、許さないよ、わたしは」

「────ッ」

静かに放たれた殺気に、隻影はごくりと唾を呑んだ。

「……そうか、お前には、お前を大事に想ってくれる仲間が出来たんだったね」

ぼそり、と形のよい薄い唇から漏れる言葉。

「ずるいね。」

そう言って隻影が笑んだ瞬間、本能が彼の抑えた殺気を感じ取った。

「……だけど、そんなの許さないよ?取られるくらいなら、壊してあげるよ」

「────!」

息が止まった──否、止められた。

隻影の唇が白雪のそれに噛みつくように重なり、息が出来ない。

「ッ…や……っ」

いくらもがいても、身を捩っても、体勢的に不利で、逃れられない。

──嫌だ。

こんなの、嫌だ。

刀で斬られるよりも、嫌だと思った。

手を振り上げたが、それは隻影の手によって掴まれ、地面にのめり込む勢いで押さえ付けられた。

その間にも、激しい口付けは止むことがなかった。

「ん……や、だ、って……!」

ようやく離れた隻影に、息も切れ切れで睨み付ける。

すると、ぼうと赤い炎の玉が幾つも現れた。

「今すぐ離れなきゃ……」

それ以外言葉が出なかった。

ぐにゃりと視界が大きく回り、全身から力という力が抜け落ちた。

「あの状態でまだ能力が使えたのは驚きだ。さすがって感じだけど……残念。無理のし過ぎは己を死に追いやるよ?」

そう言って、隻影はぞっとするほど冷たい笑みを見せた。

──ほんとに、そっくりだ。わたしと。

だけど、全然違う。

彼は人を嫌っている。

自分を勝手に“造り”勝手に畏れた人間達を。

ぼうっとする頭で、そんなことを思った。

「……可哀想に」

「────ッ!」

愛を知らないのだ。

寂しさを狂気に変えて。

必死に孤独に耐えて。

独りぼっちで生きている。

「……ぼ、くが可哀想なら、お前だって同じだ……!」

「んむ……ッ」

叫ぶように言うと、隻影は再び口付けをした。

今度は冷たい舌が入ってきて、必死に何かを探すように蠢く。

だが、抵抗する力なんてものはもう残ってはいなかった。

着物を剥がされても、帯を乱暴に解かれても、身体中に噛み付かれても。

ただじっと隻影を見つめることしか出来なかった。いや、しなかった。

「ねえ、啼いてよ白雪」

「…………」

「啼けよ、白雪」

「…………」

「ねえ!」

どうしてそんな目で僕を見る。

彼はそう言った。喚くように。

だけど答えない。

ただただ、その傷付いた瞳をぼうと見つめていた。

「白雪
!」

目の前で自分を馬乗りしている少年のような青年の声とはまったく違った声が、自分を呼んだ気がした。

と、次の瞬間、鈍い音と共に視界から隻影が消えた。

ゆっくりとその姿を探すが、その前に視界が黒く染まった。

抱き起こされて、顔を上げる暇もなく温かい腕に包まれた。

「……すまん」

第一声は、彼にしては珍しく弱々しく、か細い声。

そんな声音に、心地好い温度に、思わず笑みが漏れた。

「どうして黒銀が謝るの」

「……くそ、俺のせいだ」

ぎゅ、と抱き締められる腕に力が入り、苦しい。

だけど不思議と嫌じゃなくて。

その逞しい胸に小さく頬を擦り寄せた。





1.END.


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