キリリアに滞在し始めて二回目の朝を迎えた。
つまり、この町に来て三日目と言うことなのだが、昨日丸一日町の隅々まで観光し、見るものは見尽くしてしまった。
魅蜻はだるい身体を起こし、そっと部屋を見回した。
ふと、澄んだ緑の瞳とぶつかる。
「おはようございます、魅蜻さん」
ソファーに腰掛けていた翡翠が、持っていた本から顔を上げ、にっこりと微笑んだ。
「おはよ……」
胸がどきりとして、少し変な感覚に戸惑いながらも、ベッドから出ながら挨拶を返す。
旅始めは慣れなかった四人同屋も、今や気にも止めなくなった。
お金は大事だし、一人ずつ部屋を当ててる余裕もない。
「……二人は?」
そういえばその同室の残りの二人──白雪と黒銀の姿が見当たらず、翡翠に聞いた。
「……相変わらずですよ」
ふう、と溜め息をつく翡翠に、魅蜻も内心溜め息を溢した。
何があったかは知らないが、一昨日から、様子がおかしいのだ。
確かに一昨日の朝に一悶着あり黒銀の機嫌が悪かったのは魅蜻も翡翠も当然知ってはいたが、それとは何か別の、よそよそしい微妙な雰囲気をしていた。
いつもなら同じ村や町に留まるのは最低二日なのだが、なぜか町を出る気配がなかった。
というか、昨日もそうだったのだが、朝起きると白雪も黒銀もいない。
二人でお出掛け、などでもないらしく、早起きな翡翠が起きる頃には白雪はもういなくて、黒銀は魅蜻が起きる前にふらりと出ていくらしい。
夜、部屋の中でも空気は悪いし、二人とも一言も会話をしない。
黒銀は何かピリピリしているし、白雪と言えばぼんやりとしていて、どちらにも話し掛けづらい。
翡翠は「すぐに仲直りしますよ」なんて言っているが、彼も心配しているのは一目瞭然なわけで。
どうにかしたいが、どうしたらよいのかわからないのが現状だったりする。
取り敢えず顔を洗って着替えを済ませた魅蜻に、翡翠は読んでいた本をぱたんと閉じて、ソファーから立ち上がった。
「私達だけで朝食に行きましょうか」
「……ん」
こくりと頷いて、翡翠と共に宿を出た。
昨日とまるきり同じ店に入り、同じテーブルに着く。
「何食べますか?」
そう聞く翡翠に、昨日と同じでいいと答える。
魅蜻はあまり字が読めなかった。
暮らしていた小さな村では学校なんてものはなかった。
両親は都生まれなので学はあったが、教えてくれることはないまま、村を飛び出した。
しかし翡翠は毎日わかりやすく教えてくれるので、少しずつだが読めるようになってきた。──といっても、自分や他の三人の名前や、普段目につく宿等の字だけだが。
わかりましたと返事をした翡翠は、店員を呼んですらすらと注文をした。
魅蜻は店内をきょろきょろと見渡したが、勿論大好きな少女もいなければ、白雪大好きな好敵手さえいない。
それどころか客も多くはなく、どちらかと言えば静かな店だ。
「お待たせいたしました」
そうしているうちに料理が運ばれてきて、魅蜻と翡翠は手を合わせてから手をつけた。
湯気をあげた野菜のクリーム煮やステーキとチーズ、パンを順に口に入れては飲み込む。
美味しい。
村で肉類など食べることは滅多になかった。
白雪と旅を始めてから──そして、翡翠や黒銀が加わってからは一層、食べたこともないような豪華なものを食べられるようになった。
以前それを白雪に言うと、彼女は豪華にはほど遠いけどね、と笑っていたが。
だけど彼女は、身体に栄養があるものをちゃんと食べさせてくれるし、たまにの贅沢と言って魅蜻にとびきり美味しいものを買ってくれたり、可愛らしい小物を与えてくれたりもする。
【──うん、やっぱり魅蜻には黒や紫が凄く似合うね。綺麗だ。】
そう言って笑う少女の姿が脳裏に映され、思わずパンを千切る手を止めた。
「……魅蜻さん?」
どうしました、と心配そうにこちらを見る翡翠に、白雪みたいに平気な顔を装って“大丈夫”なんて言える器用さもない魅蜻は、深緑の瞳を見つめた。
「……このまま、バラバラになったり、しないよね……?」
ぽろり、と溢れてしまう不安。
本当は彼女にとって──彼女達にとって、自分はお荷物で。
いつかいらなくなった玩具のように棄てられてしまうのではないか。
本当は必要とされていないのじゃないか。
あのぎすぎすとした重い空気の中にいると、知らずのうちに思考が暗くなり、そんなことを考えてしまう。
「きっと大丈夫ですよ」
どうして。
「……んで」
「え……?」
「何で大丈夫なんて言い切れるのっ?私にとって白雪がどれだけ大事か知らないくせに……!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。
静かな店内が更にシンと静まり返る。
唖然としている翡翠に、はっと我に返った魅蜻は、居たたまれなくなりガタンッと席を立ち、店を飛び出した。
「魅蜻さんっ」
後ろから翡翠の慌てたような声が掛かったが、振り返らずに一目散に走る。
──馬鹿だ、私。翡翠に八つ当たりしても意味がないのに。
だけど不安で。
この新しいものだらけの楽しい旅が終わってしまうのではないかと思うと、冷静ではいられない。
落ち着いた大人の翡翠が少し腹立たしくて、不安ばかりの自分が悔しくて。
宿に駆け込み、部屋のドアをばたんっと荒々しく閉めた。
当然誰もいないそこは、静かで、何だか冷たかった。
木の床にずるりと力なくしゃがみ込んで、後悔の念に苛まれた。
翡翠まで離れていったら、
──私はまた……独りぼっち。
ぽろり、と涙が一粒頬を滑り落ちて、床に染みを作った。
ばんっ!
「魅蜻さん!」
珍しく動揺したような翡翠の声に、びくりと肩が跳ね上がる。
顔を上げると、焦ったような、困ったような翡翠がいた。
「ご、ごめなさ……」
「すみません」
魅蜻が謝る前に、翡翠が謝罪してきた。
と思いきや、膝をついた翡翠にふわりと抱き寄せられて、彼の胸に頬をうずめるような格好になった。
「ひ、ひすい……」
「すみません、魅蜻さんの気持ちも考えずに。失言でした」
耳元に響く声に、胸が高鳴る。
「違う、私が……勝手に八つ当たりしただけなの。だから、ごめんなさい……」
彼の前じゃ意地なんてすぐに崩れてしまう。
「本当は皆に必要とされていないのかなって……、このまま旅が終わっちゃうのかなって、そう思うと……」
そこまで言うと、翡翠が抱き締める腕にぎゅっと力を籠めた。
「そのようなこと言わないでください。貴女は必要です。白雪嬢は多分、貴女が一番必要なんです。それに、黒銀や──私だって。貴女を必要と思っています」
必要ではないと考えたことなど一度もありません、と言う優しい声音に、魅蜻は凝り固まった心の中が溶けていくような気がした。
「……ありがとう」
そして、ごめんなさいともう一度謝ると、ゆっくり離れる。
真摯な彼の瞳に惹き込まれる。
どきどきとうるさいほど心臓が脈打ち、ふわふわと羽根でも生えているような感覚に陥る。
「旅は終わりませんよ。あの二人なら大丈夫。何があったかは知りませんが、貴女が泣くようなことはしませんよ」
そう言って柔らかく笑んだ翡翠は、そっと魅蜻のすべらかな頬を片手で包んだ。
「不安を消すおまじないです」
おまじない?と聞こうとしたが、聞けなかった。
気が付けば、翡翠の柔らかい唇が自分のそれにぴったり重なっていたから。
──────え?
それはほんの刹那の時間<トキ>。
離れていった綺麗な顔を、見開いたままの目で見つめると、彼は少し照れたように、そしてどこか妖艶に微笑んだ。
何をされたのか理解すると同時に、かああと頬が赤くなるのが自分でもわかった。
初めての、接吻。
しかし不思議と嫌な気はしなかった。
ただ、鼓動がばくばくと騒ぎ立てているだけ。
そんな少女が、気持ちに気付くのはもう少し後の話。
END.