──暗い。
白い少女はただひたすら暗闇の中を歩いていた。どこまで歩いても闇、闇。闇。
自分の姿も見えない。何も見えない。在るのは全てを呑み込む闇だけ。
怖い──怖い?……怖くなどない。わたしは、──化け物なのだから。
じわじわと押し寄せる恐怖を否定し、そう暗示をかけるように思い、また一歩と足を踏み出した時だった。
暗闇から一転、真っ白な空間に出た。
が、安堵したのも束の間。
びしゃっと周りで何かが弾け、少女の白い装束を濡らした。
ゆっくりと見下ろすと、装束は赤くそまっていた。これは────血。
「…………っ」
びしゃびしゃ、と再び鮮血が降ってきて、少女を真っ赤に染め上げた。
「や……」
どくん、どくんと心臓が脈打ち、息が出来なくなる。
次第に幾つもの悲鳴が耳元で聞こえ、固く目を閉じて耳を押さえた。
──オマエノセイダ!
──バケモノ!!
「やめて……」
どれだけ強く耳を押さえても、怖いほどに鮮明に声は響いて聞こえる。
少女は力なく呟き、その場にうずくまった。
──バケモノ!!!!
「……わたし、は……化け物」
どくり、と心臓が跳ね上がる感覚と共に身体中に赤い紋章が浮かび上がる。
「な……」
『そうだ、わたしは化け物だ。さあ、共に全てを滅ぼすのだ』
「滅ぼ……す?」
『──全てを!!』
「──っ!」
目をいっぱいに見開き、少女は弾くように飛び起きた。
「っ、は……ッ、……夢……ッ」
自分の両手を見下ろして、荒くなった息を整える。
これでもかというほど心臓はばくばくと騒ぎ、寝間着はぐっしょりと汗で濡れている。
小刻みに震えた体を両腕で抱き締め、唇を噛み締めた。
──嫌な夢。
周りはまだ闇に包まれている。──眠ってからまだあまり時間は立ってないようだ。
「いつまで続くのかな……もう、楽にしてよ」
ぼそりと呟いた少女の体が、ふわりと温かいものに包まれた。
「……っ?」
「白雪」
「……黒、銀」
力強い腕に呆気なく体を絡めとられ、大きな胸にすっぽり収まった。
心配そうな自分の名を呼ぶ声音と温かい胸に、少女、白雪は少しだけ安堵感を覚え、小さく息を吐き出した。
「……汗でびしょびしょだから、汚いよ。離して」
いつもの声音を意識しながら言うと、より一層抱き締める腕に力がこもった。
「それだけ怖い夢見たってことだろ。身体も冷えきってる」
どうしてこの人はいつもこんなに優しいのだろう。
甘えては駄目なのに、と思うもこの温かさを拒否することが出来ず、黒銀の胸に頬を寄せた。
「大丈夫だ、俺がいる。いつでもお前の傍にいる。──だから一人で抱え込まなくてもいいし、無理に笑わなくてもいいんだ」
どうしていつも本当は欲しい言葉を惜しみもなく簡単にくれるのだろう。
「なんで……?なんで、わたしなんかに……わたしは、……化け物なんだよ?」
震えを抑え、絞り出すように言うと、がしりと両頬を掴まれ、顔を上げさせられた。怒ったような、傷付いたような黒い瞳とぶつかり、白雪は少したじろいだ。
「お前は化け物なんかじゃない……!お前はお前だ。頼むから、自分のことを化け物なんて言うな」
珍しく声を荒げた黒銀に、白雪の銀色の瞳が揺れた。
「俺は……お前が好きだから。だから、お前の傷付いた姿なんて見たくないんだ。白雪を、護りたい」
「黒銀……」
真摯な瞳に、白雪は思わず目を伏せた。
「でも……わたしは……」
尚も言おうとする白雪の頭を黒銀は自分の胸に押さえつけ、阻んだ。
「それ以上自分は化け物だとか言うんじゃねえぞ。言っただろ、お前はお前だって」
「わたしは、わたし……」
「ああ、そうだ」
冷えきった心の奥がじんわりと温まっていくのがわかった。
「……わたし、着替えるね」
その温かさに呑まれそうになり、ゆっくり黒銀の胸を押して離れる。
「……ああ」
ベッドの傍に置いた鞄から新たな寝間着を取り出し、ちらりと周りを見渡した。
この暗さなら着替えでも問題なさそうだ。
白雪は汗で湿った服をゆっくりと脱いだ。
と、カーテンの隙間から一筋の月明かりが顔にあたった。
どくん……!
あのリアルな夢の時と同じように、心臓が脈打った。
「……っ」
ばっと身体を見下ろすと、──雪のような肌に浮かび上がった真っ赤な紋章。それは熱を帯びたようにぼんやりと発光している。
「…………っ!」
叫びそうになるのを堪え、急いで新たな寝間着を着た。それでも白い寝間着からは見たこともない紋章が浮かび上がって見える。
どくん、どくん。
底知れなく沸き上がる恐怖を、手のひらに爪を立てて堪える。
「白雪……?」
黒銀の呼び掛けが聞こえる。心配そうな、温かい声。
「だ……いじょ、ぶ」
上手く舌が回らないが、そう応えて一歩後ずさった。
「声が震えてるぞ。何があった」
黒銀が近付いてくる気配を感じ、白雪はまた一歩と、震える足で下がった。
とん、と窓に背中がぶつかると同時に黒銀が目の前にやって来た。
来ないで。──わたしを、見ないで。
さっとカーテンの後ろに潜り込んだものの、一足早く黒銀にしゃっとカーテンを開けられ固く目を閉じた。
月明かりが照らす、赤い身体。
「白……雪」
驚愕が入り交じった声と息を呑む音が聞こえた。
「見ない、で……」
心臓が締め付けられる痛みに顔をしかめながら俯くと同時に、壊れ物を扱うようにぎゅっと抱き締められた。
「や……」
身を捩って逃れようとすると、力強い腕にきつく抱きすくめられた。
「……言っただろ、お前は一人じゃない。一人で抱え込まなくてもいい。俺がいる」
吸い込まれそうな低く穏やかな声音に、白雪は考えるよりも先に彼にすがり付いていた。
「わたし、どうなっちゃうの?こんなの、やだ……本当に化け物なの?わたし、わたし……っ」
「お前は化け物じゃない。大丈夫だ、ずっとこうやっててやる。何も怖がることはないさ」
何度もそう言って背を撫でてくれて、ようやく恐怖心が薄れていく。
何とか冷静を取り戻し、自分の手を見下ろしてみると、あの気味の悪い紋章はさっぱりと消えていた。
「……黒銀」
「なんだ?」
「あったかいね、黒銀」
「お前もな」
おそるおそる黒銀の背中に手を回すと、彼が優しく笑む気配がした。
「さあ、ベッドに戻ろう」
「ん……、わ」
ふわりと浮遊感を感じ、ようやく抱き上げられたのだと理解し、身じろいだ。
「大丈夫、歩ける……っ」
「そんなに大きな声出すとみんな起きちゃうぜ」
それを言われてしまえば黙るより他ならなかった。
何せ、部屋は広いが四人一部屋で泊まっているのだ。女だけだと危険だという男達の提案に、宿代を削るという理由からだ。──後者の方が強いが。しかしベッドは一つずつ分けられており、なかなか贅沢な部屋だ。
下ろされたベッドからふわりと白檀の高貴な香が香り、白雪は首を傾げた。
「ここ、黒銀のベッド……」
「汗、かいただろ?風邪なんか引かせられるか」
「……黒銀」
つくづく、どこまで優しいのだろうと思う。
「さあ、寝よう」
「…………」
そっと引き寄せられ、ゆっくりと横たわる黒銀に、白雪の身体もベッドに沈んだ。
「──寝れるか?」
気遣うような声音に、ふるふると首を横に振った。寝れない、というよりは寝たくない。またあの夢を見るのではないかと思うと寝ようとは思えなかった。
「子守唄でも歌ってやろうか?」
「いい、下手そうだし」
「……お前なあ」
確かに子守唄の一つも知らなかったりするが、白雪のの即答に黒銀は苦笑した。
「──傍にいてくれるだけで、いい」
小さく呟いた白雪に、黒銀は目を瞠った。
「……なに?」
じろりとこちらを睨みあげる白雪の目元が心なしか赤く見えた気がして、黒銀は思わず破顔した。──これは反則だろう。
「いや、……それならずっと傍にいるぜ。嫌と言っても離さないからな」
ぎゅっと小さな身体を抱き締めると、少女は身じろぎした。
それでも抵抗しない白雪に緩みそうになる頬を抑えながら、少女の耳元に口を寄せた。
「──好きだ」
精一杯甘い声音で告白してみると、いつの間にか大人しくなっている少女の反応がなく、ゆっくりと見下ろした。
「……寝てやがる」
なんというタイミングの悪さ。これは、新手の嫌がらせか?先程のさりげない告白も、あっさり流された気がするし……。
それでも、すやすやと眠るあどけない少女に、ふっと笑みが漏れた。
銀色の髪をさらりと撫で、柔らかな頬に触れた。
「ん……」
「たとえお前が何者でも、俺が白雪を護るよ。だから、お前はこうやって俺の腕の中にいてくれ」
額にそっと口付け、少女を起こさないように優しく抱き締めた。
一度あることは二度ある。
「……デジャヴ?」
魅蜻はしかめっ面で一番端のベッドを見下ろし、ぽつりと呟いた。
ベッドの上では、黒銀と、彼に抱き締められ、長い銀髪を散らせた白雪が静かに眠っていた。──まるで恋人のように密着した身体は、魅蜻の眉間の皺を寄せるには丁度よかった。
「まあまあ、魅蜻さん。仲睦まじくて良いじゃないですか。──それに、白雪嬢はだいぶ彼に心を開いたようです」
「…………」
尚も顔をしかめている魅蜻に、翡翠は苦笑した。
「今日くらい多目に見てやって下さい」
「……ん」
しぶしぶとだが頷いた魅蜻の目に、信じられない光景を目にした。
未だ眠っているはずの黒銀が白雪の頬をそっと包み──貪るように口付けを始めたのだ。
これにはさすがに翡翠も目を剥いた。そしてふるふると怒りに震えた魅蜻をそっと盗み見た。
ばしゃっっ!!
なんと魅蜻はテーブルの上に置かれた、水瓶をひっ掴み、……黒銀にぶちまけたのだ。
「……つめて」
うっすらと目を開いた黒銀は、眼前にあるあどけない顔に驚いた。確かに一緒には寝たが……近すぎやしないか?
と、そこで唇に柔らかなものが触れていることに気がつき、瞠目してばっと飛び起きた。
「な……」
状況把握出来ていない黒銀は、髪から滴り落ちる滴と白雪を交互に見て、それから般若の形相をした魅蜻に目をやった。
──珍しく感情丸出しだな。
なんて呑気なことを思いながらも、段々はっきりとしてくる頭で、自分が何をやったか理解し目を赤く染めた。
「……やっちまった」
「許さない……」
呟いた黒銀の言葉に間髪入れず、魅蜻がぼそりと言い放った。その声は怒りに満ちている。
「ちょ、まてまて!これは、そう!不可抗力だ!翡翠!」
助けを求めるように長年の友人に目を向けるが、──何処吹く風といったように顔を背けられた。
「な……」
「言語道断!!」
がっしゃーんっという破壊音でようやく起きた白雪は、少しだけ濡れた髪を不思議に思いながら身体を起こした。
そして、無惨な姿になった部屋に、憤怒している魅蜻に、罰の悪そうな顔をした黒銀に、白雪は瞬くのだった。
.End