ネットを挟んで向かい側に金ちゃんがいた。
あの春の日から見つめ続けてきたその成長を、今ひしひしと感じている。
金ちゃんは少し見ない間に随分とプレイの幅を広げていた。自分の成長なんか止まっているように感じられるほど、爆発的なスピードで金ちゃんはグングン進化していく。とっくに追い抜かれていると覚悟していたが、それでも見向きもされなくなるのは嫌だった。
執念深く食らい付いて、俺は俺のテニスをする。基本に忠実な、だからこそ隙のないテニス。金ちゃんも昔よりは戦略的なテニスが出来るようになったとは言え、まだまだ大技に頼りがちなそのプレイスタイルには隙も多い。

俺たちは睨み合い、一球を大切にやりとりした。
そうだ、俺を追い詰めるのはいつも金ちゃんだった。俺に限界を見せるのも、憧れを抱かせるのも、すべて。
金ちゃんは、俺の特別だった。

重い球を、歯を食い縛るようにして打ち返した。
ラインギリギリを狙ったその軌道が最後の決め手となって、久々の勝負は俺の勝利で終わりを迎えた。

「ふんぎい〜!あともう少しやったのに!白石!もういっぺん!もういっぺん勝負しよ!」

「ハァ、金ちゃん無理言うなや。頼むから俺のこの汗見て物言って」

「めっちゃバテとるやんけ!白石やっぱ体力落ちとるんとちゃう?」

「昨日あんま寝れてへんねん!ていうか好き勝手言うとるけどなあ、その俺に自分、負けたんやで」

金ちゃんは悔しそうにしながらも、これ以上駄々はこねないでいてくれるようで、俺の横でクールダウンをし始めた。

「なぁ、白石。何にそない悩んどるん?負け惜しみにもならんけど、今日の白石の球、変な感じやったで」

身体を動かしたら頭がスッキリすると金ちゃんは教えてくれたが、本当にその通りだ。スッキリしすぎていて、怖いくらい。

「あー、ちょっと。好きな人のこと諦めようかなとか、色々」

スッキリしすぎて、秘めていた悩みまでついペラペラと喋ってしまった。

「何や白石、好きな人おんの?」

金ちゃんは前屈をしながら訊いてきた。

「んー、まぁな。ていうか『おった』、みたいな」

俺がそう答えれば、金ちゃんは「白石、ワケわからん奴やなあ」と笑ってくれた。

頭の中がフワフワするような、何もかも楽しいような気分。俺は今ハイになっているのだろうか?だから、こんなことを思うのだろうか?俺は今冷静じゃなくて、だからこの感情は間違いで?
――それなら、それでもいいと思った。
次の一言で金ちゃんがどんな顔をするか、ただそれが知りたかった。

「しゃーないやん。
そいつより金ちゃんの方が好きな気がしたんやもん」

俺は狡いだろうか。
金ちゃんの顔を見つめたら、金ちゃんは案の定驚いた顔をしていた。

「……なんてな。冗談や」

耐えきれず誤魔化して笑ったけれど、金ちゃんは笑ってくれなかった。罪悪感。

「あれ、そうなん?ワイは冗談やない方が嬉しいけど。ワイも白石のこと好きやもん」

金ちゃんのくせにいつもみたいに笑ってくれないから調子が狂う。
いつの間にそんな表情覚えたん。
大人びた無表情の横顔を見つけたら、胸が苦しくて堪らなくなった。

「……金ちゃんの好きは、違うやろ」

それだけ言うのが精一杯だった。

「なんで?好きに違うも違わんもないやろ」

金ちゃんの声が少しずつ、大人の男に近付いていく。抑えた怒気は低い声で表された。

「俺の好きは、金ちゃんの思っとる好きと違うかもよ?」

恐る恐る、機嫌を窺うように言葉を発した。自分の狡さに涙が出そうだ。こんな小心者の俺とは反対に、金ちゃんはキッパリとこう訊いた。

「白石はワイにチューしたいんか?」

恥ずかしいことを言う、と思ったけれどそれを子供だからだとは片付けられなかった。回りくどく自分の気持ちを隠して、金ちゃんにそう訊かせている俺の方がよっぽど恥ずかしい人間だ。力強く立ち向かって、俺の気持ちを暴こうとする金ちゃんは格好良くて、俺は狡くて。
返事をしない俺に、金ちゃんは続けた。

「やったら何も違わんわ。安心してええで。
でもな、白石、……ちょっとずるい」

金ちゃんが目を伏せて、悲しそうな表情をする。見たことのない表情に一瞬見惚れて、それから「スマン」と謝った。

「話して。ワイに言うても無駄やって思うかもしれんけど。白石の悩んどること、全部、知りたい」

本当に、いつの間にか大きくなってしまった。保護者の役は解かれたのに、いつまでもそんな気持ちで金ちゃんを見てしまう。金ちゃんが成長していくのは嬉しいようで寂しいようで。離れたくない、忘れられたくないと思う気持ちの終着点がこの答えで良かったのだろうか。
ぼんやりと俺は奇妙な三角関係について金ちゃんに語った。ただ、名前だけは言えなかった。金ちゃんの純粋な思い出を俺たちの恋なんかで汚してしまいたくはなかった。

金ちゃんは黙って全部聞いてくれた。
そしてすべてを聞いた上で、「逃げるな」と優しく背中を押してくれた。

「今逃げたら、一生後悔すんで」

そうかもしれない。後悔が残るかもしれない。でも今更どうすればいい。

「……明日、当たって砕けて来てみたら」

金ちゃんは極めて明るくそう言った。

「白石、自分の気持ちを大事にしぃや。
泣くほど悩むくらい大切な関係なんやったら、尚更、大切に壊した方がええと思うわ」

大切に壊す。
不思議な表現から、金ちゃんの言う意味は伝わってきた。

どんな気持ちだったとしても、俺は確かにその三角の一点なのだ。憎い、辛い、そんな嫌と言うほど味わった負の感情も、恋をした幸せな気持ちも、どんな感情もその中にあった。たとえそれがハッピーエンドじゃないとしても、俺の青春はこの三角形の中にある。いつまでもきっと、記憶に残る。だからこそ、大切に壊さなくてはならない。

「一つずつ片付けて、スッキリして、そんでワイが最後に心に残っとったら、……そうしたら、そん時もう一回ワイのこと選んでや」

俺は金ちゃんを利用しようとしているのだろうか?逃げ道になってあげると暗に約束してくれた金ちゃんの優しさを?
でも、金ちゃんは「もう一回選んで」と言った。申し訳ないと思うならもう一度でも何度でも、本当の気持ちで金ちゃんを選べばいいだけだ。傷付ける心配も遠慮も要らない。だって相手は誰よりも強い、金ちゃんなのだから――。



決心の鈍らないうちに終わらせようと思った。
次の日の放課後、俺はまず財前を呼び出した。

「俺、今から謙也に告白するけど、フラれても財前とは付き合われへん。堪忍な」

告白もしないのにフラれた財前の気持ちなど知らない。財前の顔が笑っていたか泣いていたかも見なかった。返事も聞かなかった。財前は何を言いたかっただろう。「わざわざ報告どうも」?「頑張ってくださいね」?俺が機会すら与えなかった言葉の選択肢。財前と俺を繋いでいた辺が消えて、正三角はゆっくりと崩れ始めた。

一歩ずつ、謙也を呼び出しておいた屋上へと近付く。絶対に勝てないと思う勝負でも、「絶対」はない。金ちゃんの言葉が頭を過る。
扉を開く。
暗く長く続いた階段から、外に出る。


「……謙也、お待たせ」

背中に声を掛ければ、謙也はわざとゆっくり振り向いた。

「おう、どないしたん?」

その笑顔が好きだった。……今も。

「俺な、」

今までありがとう。

「謙也のことが好きやねん」

俺と一緒に三角を作ってくれてありがとう。

「……付き合ってください」

静かな午後だった。
風がそよとも吹かない、静かすぎる午後だった。

「スマン、白石とは付き合われへん。
……ホンマに、ごめん」

何度も謝られるほど、俺は可哀想な人になってゆく。

「……いや、こっちこそ悪かったわ」

今のは忘れて。これからも友達で。
そんな叶わぬ願いを伝えることは諦めた。

「ありがとな」

誰が何に「ありがとう」なのか。
それはきっと俺たちを閉じ込めていた三角関係に。
俺たちそのものだった正三角の終わりに向けた、餞の言葉。

笑顔にはなれなかった。
失恋は辛かった。
絶対に勝てない勝負の「絶対」が確定して、俺は踵を返す。

予想していたことじゃないか。
それなのに、何故こんなにも胸が痛む。
喉は焼け焦げるように熱くて、呼吸も苦しい。

階段を駆け下りて、俺はこれからどこへ行けばいい?この校舎のどこにも青春の影が落ちていて、目を瞑らなければ、今はまだ思い出にも出来ないその日々の輝きが目に痛む。壊れた正三角の欠片がバラバラに散らばって、眩しく光りながら心に突き刺さる。

痛い。

早くこの校舎から抜け出したいのに、夕方の廊下は異世界のように長くて、俺はデジャヴを繰り返す。
過去の景色まで視て、涙が溢れて、逃げ道を求めて彷徨った。

助けて。

涙を撒いて走るその一瞬、手首を掴まれた。
反動でよろめく身体を受け止めてくれたのは、俺の逃げ道でいてくれる人。
痛いくらい力強く抱き締められて、俺はそこから抜け出そうと必死で。

「やめて金ちゃん!」

首を振った。掴まれた腕を振りほどこうと力の限り引っ張ったけれどびくともしない。涙はボロボロ溢れて、こんなところを見られたかったわけじゃないのに、金ちゃんはそれでも手を離してくれなかった。

本当は抱き付いて泣きたかった。でもそうしてはいけない気がした。俺は誰のことを好きなのだろう?三角関係は壊れたけれど、謙也にフラれてこんなにも辛い気持ちでいる。それは謙也のことがまだ好きだという立派な証拠だったけれど、今、俺は確かに金ちゃんのことも好きなのだ。
こんな半端な気持ちで金ちゃんに好きなんて言えない。だから金ちゃんに慰めてもらうことも許されるはずがない。都合が良すぎる。弱くて泣いてばかりで、逃げ道からも逃げ出そうとする狡い俺を、許さないで。

「俺のことなんか放っといて!」

金ちゃんの小さな身体でも抱き締めてもらえば落ち着けて、こんなにも好きだと思うのに、どうしてもそれを選べなかった。昨日のことはまだ冗談で済ませられる。今なら引き返せる。金ちゃんの腕の中で、違う人のことを考えている、こんな俺を好きにならないで。

古いものが壊れて、新しいものが生まれる痛みが体内を貫いていた。

「今日だけやったら、他の奴の為に泣いてもええよ。今だけ泣いて、泣き止んだら、もう白石はワイのもんやで」

そう宣言した言葉は、金ちゃんが選んだ選択肢。
俺は「気持ちの整理がついたら選ぶ」と言ったけれど、それよりも先に金ちゃんの選択が始まった。
金ちゃんは俺の心配なんかより遥か遠いところにいて、自分の道を自分で決められる。俺が心配しなくても、すべて自分の責任だと言って俺を愛してくれる。俺は金ちゃんを傷付けてしまう。幸せにしてあげる自信もない。そんな風に思うことさえ金ちゃんの前では傲慢で。金ちゃんは自分で何でも選んでいける。幸せにしてあげる自信がない俺を笑って、俺を巻き込みながら幸せになってくれる。

「……泣き止んだ?じゃあ、白石はワイのもんやな」

落ちかけた最後の涙は、金ちゃんが乱暴に拭ってくれた。
身を任せてみてもいいかもしれない。ここからは、二人で選んでいけばいいのかもしれない。金ちゃんとなら、いつだって何だって楽しみながら選んでいける気がした。


「……金ちゃんも、もう俺のもんやからな。
勝手にどこでも行かんでな」

俺がそう呟けば、金ちゃんは嬉しそうに笑った。



三角形の一端を担う重みに疲れた俺の、身勝手な弱さを許してくれた。

ありがとう。
そして、愛してる。








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