謙也の顔がみるみるうちに歪んでいった。

何や、その顔。

謙也の表情につられて、自分の頬も歪むのが分かった。

「……スマン、」

どこかで予想していた言葉だった。
やっぱりな、と思えば痛みから少しだけ自分を守れる気がする。

「気持ちは嬉しいけど、」

もう言わなくていい。そう思うのに謙也は必死に喋ろうとして、口をパクパク開けたり閉じたりしていた。

「俺、白石とは付き合えん」

ジリ、と音を立てて謙也は身を翻した。
泣きたいのも走り去りたいのも俺なのに、何故かそうしたのは謙也だった。
屋上に一人残された俺は、その場にヘナヘナとしゃがみこむ。

フラれた。
俺、今、フラれたんよな。
失恋という二文字が頭の中をくるくる回る。
想像より確かな胸の痛み。
失恋なんてちっとも楽しくなかった。
今すぐに立ち直ることは勿論、謙也を好きだと思うことさえ暫く出来ない気がする。

目に触れれば、睫毛が濡れている。
アハ、と何も可笑しくなんかないのに笑い声が漏れた。
涙が零れる。
悲しい。悲しい。
最近俺は泣いてばかりだ。
手で覆えば、涙は次々溢れて流れ落ちる。

ギィ、と聴こえた扉の開く音に驚いて、カーディガンの裾で涙を拭きとった。
立ち上がる隙まではなくて、しゃがんだまま入ってきた人物と目を合わせる。

「ハァ……最悪やん」

そう言ったのは向こうだが、俺も同じことを思っていた。
今、一番会いたくない人物。
俺を鋭い目付きで見下ろした財前は、そのまま躊躇いなく俺の傍までやってきた。俺は俯いて、泣きかけの顔を隠す。

「泣いとるとことか、見られたくないでしょ」

財前は「見たくない」ではなく「見られたくない」と俺の気持ちになって言った。そこまで分かってくれるなら、出て行ってほしかった。

「俺がいたら、泣けませんか?」

堪えていた涙が、また溢れた。
泣ける。いくらでも泣ける。誰がいたって。
カーディガンの裾を引っ張り出して目に当てる。涙が滲んで、手首まで濡れた。

「……俺がいて涙が引っ込むならそれもまたええかと思ったけど、」

財前がポツリと溢した言葉は、拾われず風に乗った。財前は俺に背を向けて、フェンス越しにグラウンドを見つめている。

「謙也さん、めっちゃ焦ってましたわ」

財前からその名前が出て、俺は少しだけ息を止めた。

「やっておかしいですよね?こういうときは普通白石さんの好きな人を呼んでくるのがセオリーでしょ。それなのに好きな人が嫌われとる人を呼んできて、どないせえっちゅー話や」

財前が俺の横に座る気配がする。膝に顔を埋めている俺の手を取って、財前はハンカチを握らせた。

「センパイ、泣かんといてくださいよ」

そんなこと言ったってなあ。
嗚咽が漏れた。
あー、格好わる。ホンマ、最悪や。
このクソ生意気な後輩の前で泣いているところなんて見せたくなかった。弱味など晒したくなかったのに。
思えば思うほど泣けてきて、悔しかった。
握らされたハンカチを財前がいるであろう方向に投げつけたら、財前の笑い声が聴こえた。財前がまた俺にハンカチを握らせる。泣きながら捨てる、また持たされるを繰り返す。俺が何度投げ捨てても、財前は何度でも優しく俺にそれを与えてくれた。もう投げる気力もなくなって、俺はただ大きな悲しみに沈みこむ。

「泣かんといてくださいってば。俺は頭を撫でることも抱き締めることも出来ひんのですから」

財前の声が震えていた。
あー、財前も格好わる。
何も言わずに抱き締めれば、卑怯でも格好はつくのに。そうしないのは優しさなのか子供だからか。財前はそのまま暫く黙ってそばにいてくれた。

「……ハンカチはあげます。何も出来ひん用無しは退散しますから、気の済むまで泣いてください」

隣で財前の立ち上がる気配がして、俺は思わず財前の袖を掴んだ。

「おって、一緒に」

驚いたのは、財前だけではなかった。
財前の黒いカーディガンの裾を引いたその手に、俺が一番驚いていた。
目を丸くした財前がもう一度座り込んだのに、俺は財前と反対側に顔を背けた。

俺が今泣きたいのは、フラれたことにではない。それは覚悟が出来ていた。一度の失恋なんてどうってことないと思うことだって出来た。
でも、もうダメかもしれない。俺が今泣いているのは、謙也の返事にではないから。財前がここに来た、それが一番悲しかった。謙也の行動の意味を考えれば、涙は止まることなんて知らない。

好きな人の想いを遂げさせるために、身を引く犠牲の美しさよ。

謙也は財前のために。
それなのに何故、俺はそれが出来ない。
今頃混乱して、そして自分のした行いを後悔しているであろう謙也のために、どうして財前を返してやれない。

「俺、むっちゃ性格悪いねん。たぶん、財前よりずっと」

唐突に話しかけられたことに戸惑ったのか、財前は「えっ」と間の抜けた返事をした。

「それでも平気?」

「……平気です」

財前の声は真剣そのものだった。
顔を背けたまま、貸してもらったハンカチで目を拭う。震えるな、と願っても涙声は揺れて響いた。

「今すぐ財前のことを好きになるような奴でも?」

「願ったり叶ったりっスわ」

ここまで言っておいて、選んでいいものかまだ気持ちが揺れている。
謙也の気持ちに応えるべきだろうか?それとも、今からでも財前に行けと言うべきなのだろうか?

期待させたまま黙ってしまった俺を責めもせず、財前はただ待っている。
その胸中は、俺よりも揺れているだろうか?

俺はずるい。
濡れたハンカチを握り締めれば、選択の痛みが胸いっぱいに広がった。
胸の中で何度も謝るけれど、結局俺は選んでしまう。


謙也、ごめんな。


「……告白してって言うても、軽蔑せん?」

「しません。その代わり、弱っとるとこにつけこむ俺のことも軽蔑せんといてくださいね」


頷いて顔を上げた。財前と目を合わせる。俺は今、どんな顔をしているのだろう。


「先輩のことが好きです。付き合ってください」

「……うん」


財前は徐々に、とても嬉しそうに笑った。
屈託のないその笑顔を見て、俺はまた涙が出た。昨日までこの笑顔が憎らしくて堪らなかったのに、どうして今はこの笑顔を好きだと思うのだろう。不思議に思うけれど、その答えは知っている。こんな自分が誰かを幸せに出来る、そんな奇跡みたいなことを教えてくれる笑顔だからだ。

財前は俺を見て、「イケメンが台無し」と言った。うるさいなあ、とハンカチを投げつけたら上手くそれをキャッチして、俺の目を拭いてくれた。

「今頃謙也さん泣いてますかね」

財前が恐る恐る、そう呟いた。
そんな不安げな声を出す財前が可哀想で、守ってやりたくて、俺は手探りで財前と手を繋ぐ。
大丈夫、俺はお前を選んだから。
自分の選択には責任を持つから。
大きく息を吸い込む。声が震えないように。

「報告したらもっと泣くやろな。
……でも、泣くのはいっぺんに済ました方が無駄ないやろ」

俺の言葉に、財前が笑ってくれた。
手を取り合って立ち上がる。
俺は謙也にありがとうと言えるだろうか。
もう一度グッと目許を拭って、一歩踏み出す。

迎えに行く。
俺たちの三角関係は終わったけれど、俺たちはまだ誰一人として欠けていない。

だから正三角形は少し歪な三人組になって、これからもきっと続いていく。









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