戦う決意を固めたら、同じように涙も固まった。もう次の一滴は零れてこなかったから、俺は深呼吸をして立ち上がる。
戦うことは選べたけれど、結局俺は誰を選ぶつもりでいるのだろう。
勝てない戦いをしたくない気持ちがある。しかし喜べもしない勝利も欲しくない。どうにも思いきりの悪い自分の性格にほとほと辟易しながら、俺は階段を駆け下りた。
「しらいし」
誰かに呼ばれた気がして振り返れば、千歳が廊下の隅でしゃがんでいた。
「あれ?」
俺の顔を見て声をあげた千歳はそのまま立ち上がって俺に近付く。千歳は抱き締められるくらい近くに立ったけれど、不思議と不快な気持ちにはならなかった。俺はどういうことか千歳に対してかなり心を許しているようだ。部活ではまともに顔も見せない扱いづらい部員だったが、それ以外では俺の良き理解者であり、良き相談相手だった。
「白石、泣いとったんね?涙の跡ついとっと」
千歳の手が頬に触れた。大きくて節張った指は、大人びた彼らしさが一番よく現れている。目の下の柔らかい皮膚を千歳の硬い指先で擦られると少し恥ずかしかったが、温かい手の感覚が気持ちよくて抗う気までは起きなかった。
「白石、なんか眠そうやね」
小さく頷いた。
泣き疲れた、なんて子供のような理由ではなかったが、昨日あのメールが気になってあまり眠れなかったから眠いのは事実だ。
「俺のオススメの昼寝スポット、行く?」
もう昼寝と言うには遅い時間だし、さっさと帰宅して家で寝てしまった方がいいことは分かりきっていたけれど、まだ誰かと一緒にいたいような気がしたから承諾して、導かれるままついていった。
歩きながら、千歳は「なして泣いたか、訊いてもよかと?」と言った。
俺は三角関係と今日起こったことを軽く説明して、頷いたきり何も言わない千歳の隣を黙って歩いた。足はいつもの中庭に向かっているようだ。
「千歳やったら、愛するんと愛されるん、どっちがええ?」
姉妹の意見も伝えて待ってみたけれど、千歳は答えなかった。
肩透かしを食らったような気持ちで俺は不安な心境を吐露する。
「……俺は、どっちを選べばええんやろか」
謙也を選んでも財前を選んでも心にわだかまりが残る気がした。悔恨、嫌悪、疑心、嫉妬。ネガティブな想像しか出来ない自分は大概悪い性格をしている。
「そぎゃん顔して。俺ん前では泣かんでよ」
外からも分かるほど思い詰めた表情をしていたのか、千歳は俺の頭をくしゃくしゃ撫でた。髪が崩れるのは嫌だけれど、どうせ今からはもう帰るだけだ。おとなしく千歳にされるがままになった。
校舎の影が降りかかる夕暮れの中庭には、既に誰の姿もない。一匹いた野良猫も千歳の巨体に怯えて逃げ去った。
「あー、猫さん……」
子供っぽい声が可愛く思えてクスリと笑うと、千歳が振り返って俺に微笑みかける。
そんな顔をされると気恥ずかしい。座り込んだ千歳の横に並んで座ると、青春してます!という感じがした。
「……人間ってわりと、相談するときはもう自分の中で答えが出とるんよね」
そぎゃん経験なか?と訊かれたけれど俺は思い当たらず首を捻る。
「白石も姉妹おるんやろ。うちのミユキも、『どっちの服がいいかな?』なんて訊いてくるばってん、結局俺ん意見なんか聞かんばい。最初から自分の決めた方があって、俺がそれを当てれば喜ぶし、俺が違う方を選べばなんやかんや言い訳をしながら、結局自分の選びたい方を選ぶ」
その喩えを聞いたら言いたい意味がなんとなく分かる気がした。確かに姉や妹と買い物に行って同じ経験をしたことがある。女々しい俺は今、あいつらと同じ気持ちで千歳に相談しているのだろうか。
「たぶん、自分の選択に自信がないから背中を押されたいだけなんよ。肯定されたいだけなんよね」
千歳はのんびりした調子でそう言って、四角く区切られた空を見上げていた。俺は空を見上げるほどの余裕もなくて、ただ眠い頭で答えを探す。
「白石は二人と話したとき、姉と妹、どっちの意見ば応援したかったとや?」
千歳のくれるヒントが優しく俺を導いていく。俺が隠していた答えを暴き出そうとする。
「俺は……」
愛する方がいい。
傷付いても、上手くいかなくても、自分が好きなら乗り越えられる。そう思う。
でも。でも……。
「白石、覚悟を決めなっせ」
俺の逡巡を悟った千歳が喝を入れてくれる。
「三角なら、必ず誰かが泣く。
それは、白石が逃げてもよ。白石が選ばんのなら、選ばれない誰かがおるんよ」
自分が傷付きたくない。誰かを傷付けたくない。尻込みして俺は泣いていた。選ばなければ傷付くことも傷付けることもないと思っていた。
だけど本当はそうじゃない。千歳の言うとおり、俺が逃げれば選ばれない財前が残る。俺の邪魔ばかりする財前なんて傷付いてしまえばいいと思ってしまうけれど、俺のそんな傲慢な考えまで見透かしたように千歳は続けた。
「それに、嫌いな人だからって、何しても許されるわけじゃなかよ」
千歳の真剣な目は、俺を射抜いて硬直させた。自分の残酷さを指摘されたようで、動けない。
「嫌いな奴でも、相手も人間ばい。白石と同じ、泣いたり笑ったりする人間よ」
千歳は俺だけを贔屓しなかった。誰のことも同じだけ可哀想だと、中立の立場でそう判断した。二人の間で思い悩む俺のことも、悪者になることを選んだ財前のことも、恋をしただけで争いに巻き込まれる謙也のことも。
俺と話しているときは俺だけを慰めてくれれば良いのに、千歳にはそれが望めなかった。いつも誰にでも臆することなく、正しく等しく物事を評価する。そんな正直な千歳だから、俺は信頼を置いているのだけれど。
「……分かった。財前にも、最低限の礼儀は尽くすわ。千歳、大事なことに気付かせてくれておおきにな」
千歳は優しい笑みを浮かべて頷いた。
「頑張って、応援しとるけん」
屈託なくそう言って背中を押してくれる千歳の存在は、本当にありがたい。
俺はやっと千歳と同じ空を見上げた。
蒼い闇が橙色の端を浸食してゆく。
もう一度「おおきに」と呟けば、千歳も小さく呟いた。
「……白石はやっぱり、謙也のことが好きなんやね」
【Q4.】
→千歳の言葉はストンと腑に落ちるように受け入れられた。そうだ、俺はやっぱり謙也のことが好きなのだ。
答えの決まっている問いを相談に見せかけてしまったことを詫びると、千歳は笑って親指を立てた。
「白石の女々しいんは知っとるけん」
「女々しい言うたな!」
髪をぐしゃぐしゃにされたお返しに、頭をグリグリしてやると、千歳は痛がりながら笑っていた。それにつられていつの間にか俺も笑っていた。
→その言葉は微かな違和感を残した。何か引っ掛かる感じがして首を捻る。
確かに俺は謙也のことが好きだった。
……好き「だった」?
千歳の顔を見れば、視線に気付いて千歳も穏やかな笑みを向けてくる。その笑顔と過去形の意味が結び付く。
……俺はこんな風に三角を崩してもいいのだろうか。不安な心で縋るように見つめれば、「白石、なんね!恥ずかしいけん」と笑われた。
俺は笑えなかった。
「千歳、」と小さく呟いた名は、俺の新しい選択肢だった。
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