飯は喉を通らない、朝練は身が入らない、何時間もの授業もすべて記憶に残らない。昨日、あの文字を見たときから既に俺の心は屋上に捕らえられていた。

昼を過ぎてからはただ放課後を待った。ポーズとしてペンを持っているが、俺のシャーペンは今日1ミリも減っていない。時計をじっと見つめて時間が謙也のように速く速く進むことを期待した。しかし時計は正確な一秒を世界に与え続けている。それどころか見つめる鍋は煮えないとでも言うかのように、時間はなかなか過ぎていかなかった。睨めっことちゃうねんで、やから早よ回りだしてもええんやで。時計をじっと見つめながら心の中で語りかける。しかし求める結果は得られない。何も手に入らない。俺は時計から視線を動かした。謙也の背中を見つめたら、いつの間にか授業は終わっていた。

最後の授業が終わる前から鞄の中を整理し、一足早くペンケースまで仕舞いこんだ。チャイムが鳴るのを今か今かと待ち構え、話をやめない先生に苛立っている。無事チャイムが鳴り、終業の号令が掛かると俺はすぐ廊下に出た。気持ちが急いてしょうがないが、それは決して楽しみだからではない。こんな自分やこんな一日、そして財前の恋を早く終わらせたい、ただその一心だった。

屋上に向かう長い階段を上がって、俺は重い扉を開く。
今日の終業と同時に出てきた俺は誰より早いはずなのに、財前は既にそこにいて俺を待っていた。一時限前からサボっていたのか、それとも2年は早く終わる時間割だったのか。しかし向かい合えばそんな雑念は消え去った。

「センパイ、来てくれたんですね」

「財前が呼んだんやろ」

「まぁそうですけど。でも行くかの最終決定はセンパイの自由意思によるところやないですか。やから、来てくれてありがとうございます」

「そんなんええから。言いたいことあるんやろ?それ言いや」

急かすと財前は纏う雰囲気をガラリと変えた。

「……センパイ、謙也さんのこと好きなんですよね?」

直球、豪速球。試合の時さえ滅多に真剣な表情を見せないくせに、俺に対しては簡単に見せるのか。そんな風に思うと心がむず痒くなる。

「叶わない片想いなんてやめてくださいよ」

――叶わない片想い。
財前の口から飛び出たその言葉は俺の心の一番柔らかいところに深く刺さって、でも切っ先が鋭すぎるからすぐには痛くならなかった。
その言葉を拒否して、突き立った刃を抜こうともがき出せば、じわりじわりと痛みが知覚されてくる。刃を抜けば血が噴出して、大きな穴が残るだろう。だから俺はその言葉を否定せずに、痛い胸を押さえて同じ傷を与えることにした。

「財前やって叶わへん片想いしとるやんか」

財前は少しだけ痛そうな顔をした。心は外から見えないから、いくらでも傷付けられる。だけど俺たちはもう無邪気な子供ではないから、ちゃんと傷付けてしまった自覚を持つ。そして傷付けた後悔や自責に囚われて余計息苦しくなるのだ。そんな何の役にも立たない、お互いを苦しめるだけの傷を与えあって、俺たちは何がしたいのだろう。

「でも、センパイは断りきれてへんから。揺れてるのが分かるから。俺が謙也さんに振り向くことは絶対ないですけど」

俺を真っ直ぐに見つめる財前の目が、俺の心の中まで見抜こうとする。やめろ、分かったようなことを言うな。俺の心に入ってくるな。
俺は鼻で笑いながら、財前を更に傷付けるための言葉を吐き出す。自分に言い聞かせるように強く念じながら唱えると、魔法の呪文みたいだ。

「俺かて財前には振り向かへんよ」

財前はいつものようにセンパイと言わなかった。

「白石さんは愛されとる方が似合う」

断定の形で言い切られて、勢いに押しきられそうな不安を感じた。その半面、俺を勝手に決めつけるな、そう思いたいだけだろうという反論が喉元までせり上がってくる。

「無理して苦しまんでもええやないですか」

俺たちが口にする言葉すべて、相手を傷付けようとする刃のすべて、同じだけ自分に跳ね返って突き刺さった。もはや口に出す一語一語が悲痛な叫びのようで、最後まで聞いていられない。財前の声が震えてしまいそうで怖かった。泣くなよ。今この勝負、泣いてしまうのは一番の卑怯だ。皆泣きたいのだ、年下だからって簡単に泣いたら許さない。財前が自分で仕掛けた勝負、決着がつくまで泣くことは許されるべきでなかった。

「無理なんかしてへんわ。最初から分かっとったことやもん。謙也が財前のこと好きなんを知っとって、それでもええから好きになったんや。無理なんかしてへん」

そうだ。この恋は最初からすべて承知の上で始めたのだ。辛かったけれど、それでも自分の気持ちを止めることが出来なかったから、三角関係に参加することを決めた。恋を諦めるならあのときだった。でも俺は諦めなかった。だからもう、今はどれだけ辛くても強がるしかないのだ。自分の決定に責任を持つためには、そうするしかない。

「それに、謙也のこと諦めたとして、財前のことは絶対選ばんよ」

宣戦布告の如く、強い口調で言い切った。

「なんでですか」

「謙也の好きな人やから。自分が身を引くなら、好きな人には幸せになってほしいやんか。
……なぁ、財前。俺のこと好きなんやったら謙也と幸せになって。俺のこと大事なら俺の願いを聞いてや」

「全然意味わからへん!」

財前が声を荒げた。いつも不機嫌で何かに怒っているような後輩だけれど、ここまで分かりやすくキレたのは初めて見る。俺はそれだけ狡いことを言ったのだ。その狡さを自覚して発言したつもりだったが、ここまで相手に火をつけるとは思っていなかった。

「センパイ、そんなんアカン。そんな綺麗事が許されるわけないでしょ。今センパイが言うたこと、そっくりそのまま謙也さんに言うたりましょか?
俺が身を引くって言ったら、謙也さんは俺のことを優しいって言いますよ。だけど、それじゃ意味ないんです。好きな人の為に身を引く可哀想な俺を、センパイが好きになってくれなきゃ。口では譲るって言うときながら、結局望んでるのは自分の幸せやないですか。だったらそんな嘘みたいなこと言わんといてくださいよ。
俺はそんなん絶対言うたらん。自分の気持ち、譲るつもりありませんから」

一息に捲し立てた財前は、怒りの篭った目で俺を見据えた。その視線から逃げられない。屋上は財前の他に見るべきものもなくて、弱い俺は財前から目を逸らすと手摺に凭れかかる。グラウンドに視線をさまよわせ、「スマン」と一言だけ詫びた。

「じゃあ本音言うわ」

グラウンドから野球部の掛け声が聞こえる。
俺の声は掻き消されず、きちんと財前に届くだろうか。

「俺はたぶん許せんのや、財前のこと」

言うと少しスッキリして、俺は微笑みまで浮かべて財前を振り返った。

「身勝手な話やけどな。俺やなくて財前が選ばれたときから、俺はもう財前のこと嫌いなんや」

財前は難しい顔をしていた。そして何も言わなかった。
泣きたかったから、俺はどんどん笑顔になった。無理にでも口角を引き上げていないと今にも嗚咽が漏れそうだ。きっと財前が俺を選んだときから、謙也も俺が嫌いなのだろう。笑いながら空を見上げたら底抜けに青くて目が痛かった。冷たい悲しみの青、それとも喜びの快晴、どちらと捉えればいいのかも分からないまま、風が吹き抜けるのを待って言葉を続ける。

「どう?俺わりと卑屈やろ?最低って言うてくれたらええのに。好きな奴がこんな人間で、幻滅したらええのに」

笑いかけたら、財前も仕方なさそうに笑い返した。本当に、笑うしかないくらいどん詰まりだ。笑ってなければやってられない。狂ったように笑ってしまわなければ、こんな関係の中で身が持たない。

「……嫌われとるのは分かっとったけど、やっぱ本人の口から聞くと痛いっスね。死ぬかと思った」

俺の調子に合わせて、財前も笑顔を見せた。
無理しているのは誰だよ。辛い恋をしているのは誰だよ。
苦しさに順位を付けたって、悲しみを比べたって、誰の痛みもなくならない。途方に暮れながらも、俺たちはまた戦う。ボロボロになっても、誰かを傷付けても、自分の幸せのために。自分を幸せに出来るのは自分しかいないことを、俺たちはもう知っている。

「でも、無関心よりはええか。嫌われて憎まれても、それだけ関心があるってことやから。どんな形であれ、俺のこと考えてくれるなら嬉しいです」

どこまでが本心でどこまでが強がりだろう。
財前の声はもう震えなかった。澄んだ響きは冬の空気の中を渡って、俺の耳と心に届く。

「俺はそんなことで幻滅したり嫌ったりしませんから」

財前はまた戦うために立ち上がった。目の中の光が俺を捉えて離さない。財前から「好き」が伝わってくる。傷を舐めあう時間は終わりだ。受け取れない好意を跳ね除けるため、俺は戦闘態勢に戻る。

「どちらにせよ振り向かれんのなら、嫌われとっても嫌われてなくても一緒っスわ。手に入るか入らんかの二択なんやから」

財前は自信ありげにニッと笑った。
俺は本当にコイツのこの笑顔が嫌いなのだと確信する。謙也は財前のどこが好きなのだろう。考えてみても仕方ないことを時々考える。こんな奴が好きとか謙也も大概趣味悪い、そんな風に思うと好きな人さえ嫌いに思えてくる。

「……センパイは絶対俺のとこに来る。これはもう、確定的な未来です」

根拠もなく断定的に言い切った財前に苛立ちつつ、一方でその自信を羨ましく思った。
女々しい俺が、財前みたいにバッサリ言い切れる性格になれたら、謙也は俺を選んでくれるだろうか。

「……そうなん?俺の知っとる未来とちゃうなあ」

小馬鹿にしてそう言った。階段への扉を開けると、ギィと錆び付いた音が鳴る。素早く身体を滑り込ませて手を放すと、やけに大きい音を立てて戸が閉まった。

階段を降りながら、潮時だと思った。
知らないフリは今日で終わりだ。一度知ってしまったことは、もう二度と知らなかったことには出来ない。
結論を先伸ばしにすればするほど俺たちは傷を負う。だから、ここで一斉に立ち上がって戦わなければ終わらない。ついに正三角形を崩すときが来たのだ。

……決心はしたが、意気揚々というわけではなかった。正直に言えば、ひたすらに悲しかった。

どうして楽しいままいられないのだろう。
別に、このままでもいいんじゃないか。
すべての矢印に見て見ぬフリを決め込んだまま、傷付きながらも甘い夢を見ていられたらそれだけで良かったのかもしれない。

誰が始めた恋だ。誰が悪い。
どうして結論を欲しがってしまうのだろう。
誰が傷付く。誰の恋が叶う。
誰にも見られないうちに、涙を拭った。拭っても拭っても、拭うだけ溢れてくる涙が止められなくて、ついに踊り場で立ち止まった。
「しょーもな」
一人呟いて、顔を膝に埋めボロボロ泣いた。本当にしょうもない。俺は何故泣いているのだろう。どうしてこんなにも泣けてくるのだろう。自分の恋の辛さだけではない哀しみがあった。二人の分まで泣いているような気がした。想いが巡ってぐるぐるぐるぐる、いろんな選択肢が頭の中でチカチカ点滅した。

俺は崩せるやろか。
ちゃんと自分の未来を選べるかな。

分からない、と泣いていたって誰も助けてくれない。だから全部、自分で決めるのだ。


【Q3.】

→俺はもう、選ぶしかない。

→逃げる、という選択肢を選ぶことも。








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