早く終われ。
今日の最終授業は始まったばかりだというのに、早速終わりを望んだ。勿論念じたところで終わるはずはない。行儀が悪いと思いながらも、俺はシャーペンのキャップを噛んだ。
特別なことなど何もない一日。記憶から確実に消去出来る一日を作るつもりで、俺は今日という日を無感動に過ごした。しかし何も感じないように考えないようにするほど、無意識の意識が浮き彫りになる。
ふと脳裏に浮かぶ、昨日の帰り道。思い返せばそのとき沸いた怒りまでが鮮明に甦る。怒りに身を任せれば、何もかもを呪えそうだ。
俺をこんな気持ちにさせるのは誰だ。
俺は前の方の席にいる謙也の背中を見た。そして同じ教室にいるはずのない財前を謙也の背中の先に見る。
やめよう、こんな暗い感情。
俺は首を振って、また無意識でいることに集中した。
終業のチャイムが鳴って、皆がガタガタと席を立ち始める。俺は暫く帰り支度をしている謙也の後ろ姿を見つめていたが、そのうち謙也が飛び出して行ったから視線の先には何もなくなった。流石に昨日の今日で謙也を誘って帰る気にはなれない。俺は頬杖をついたままボーッとしていたが、やがてそれも終えた。さっきまで謙也がいた場所から視線を外し、ゆっくりと帰る準備をする。教室を出て廊下を歩きながら、ふと財前が俺の考えを読んで昇降口で待っている可能性に思い当たった。
財前に会ったとき、自分の理性は信用できない。だから人目につく場所では絶対財前に会いたくなかった。
どこか目立たない場所で見つからないようやり過ごそう。そしてタイミングを見計らってこっそり帰ろう。俺は連絡を無視するため、携帯の電源を落として鞄に入れた。
図書室、保健室、教室、そんなベタな場所にいるのは危険だろうか。どこにいるのがいいだろう。
俺は多くの生徒と逆行するように廊下の奥へと進んで、空き教室の中に入った。教室には勿論誰の影もない。俺は近くの席に座って、何をしたものかと考える。掃除でもしてやろうかと思うほどの暇さだったが、おとなしく今日出た宿題を済ますことにした。
数学の問題集に取り組めば、頭がクリアになっていく感じがする。静寂の箱の中でシャーペンの走る音が大きく響いた。時々、黒板の上に掛けられた古い時計がギッと硬質な音を立てて針を進めている。
あと一問、というところで教室の暗さに我慢出来なくなった。集中している間にだいぶ時間が経ったようだ。灯りをつけて残りの一問を解くか考えたが、やめておいた。もはや財前も俺を待ってはいないだろう。当初の目的は達成されたはず。俺はペンケースと問題集を鞄にしまって、空き教室をあとにした。
白い廊下は先程の教室より明るく感じられたが、それでも窓の外には薄く闇が拡がり始めていた。
歩きながら通りすぎる教室の扉を覗いてみても、勿論どの教室にも生徒は残っていない。「ひとり」が強く意識された。
廊下も端まで来て、階段前に差し掛かったとき、騒がしい足音が聞こえた。先生でも走っているのだろうかと思いながら自分も階段を降りれば、忙しい足音が急に止まって「白石!」と名を呼ばれる。謙也の声だった。
「白石、どこおったん!?」
瞬時に俺の隣まで降りてきた謙也は迫るように問いかけてきた。
「え、空き教室」
何故約束もしない謙也が俺を捜してくれていたのか、経緯は全然掴めなかったが今こうして俺を見つけてくれた状況だけで嬉しかった。
「連絡しても繋がらへんし!」
「あぁ、連絡くれとったんか。携帯の電源切っとってん、スマンかったなあ。それで、どないしたん?何か用?」
「財前が白石んこと捜しとったんや。えらい必死そうやったから早よ行ってあげ!」
俺はピシッと固まった。
謙也の口から財前という名が出て、それからその情報を事務処理のように伝えられて。
アイツ謙也に何言うたんや。なんで謙也に手伝わすんや。なんで謙也の口からお前の名前なんか聞かなアカンのや。
一瞬にして血が沸騰するようだった。
何と言って謙也に捜すのを手伝わせたのか。それとも謙也のお人好しが自分から協力を買って出たのか。真相は知らないが、俺は今心の底から財前を憎んでいる。財前が俺を呼び出した理由を知っているなら、謙也はこんなに平然としていられないだろう。だから謙也は知らないのだと思う。そんな謙也を利用して何としても俺を捕まえようだなんていい度胸だ。そして、性根が腐りきっている。
「……せやったんか。悪いな、わざわざ捜す手間掛けさせて。今から行くわ。財前、まだ屋上におるやんな?」
「……?せや、屋上におるで。ほな俺は帰るな」
「うん、おおきに。謙也」
すれ違って降りていく謙也の後ろ姿を見つめる俺の目は、その背中が小さくなるほど怒りの色を露にした。屋上に続く階段を睨んだ俺は、ただ怒りに燃えている。
「いい加減にせぇよ、財前」
ドアを開けた瞬間、言い放った。
「センパイが逃げようとするから悪いんでしょ」
財前も振り向き様に言い放って、したり顔で笑った。財前は謙也に言伝てさせる残酷さを分かっていてやっている。そう確信すると俺の怒りは最高潮に達した。
「財前、お前ホンマに俺のこと好きなんか?嫌いと間違えてへんか?」
「俺は謙也さんやないんで、そこまで馬鹿とちゃいますよ」
関係のないところで俺の好きな人を貶める発言まで入れてきて、本当に腹を立たせたいだけかと思う。どう言い繕おうと財前は馬鹿だ。俺に嫌われて、それでも平然とニヤニヤ笑っていられるなんて。
「センパイ来てくれるの遅いから、話す時間少なくなってしもたやないですか。ちゃっちゃと本題言わせてもらいますわ」
俺の腸が煮えくり返っていても何も気にならないらしい、この高慢ちき野郎はどこまでもマイペースに話の進行などしている。
「センパイ、謙也さんのこと諦めた方がええですよ」
何笑ってんねん。ニヤニヤした顔、めっちゃムカつくから今すぐしまえや。
思い付く限りの罵詈雑言が喉元までせりあがって待機している。そうやって財前に怒りを向けることに集中して、俺は悲しみに負けないようにした。強い激怒のエネルギーを放出し続け、財前の言葉を跳ね返していないと、戯言さえ受け入れてしまいそうだから。
「ハァ?なんでそないなことお前に言われなアカンねん」
「やって謙也さん、センパイのこと全然眼中にないやないですか」
――やめて、そんなことを言わないで。
一瞬の隙に刃が刺さった。痛い。
悲しみが溢れ出す前に怒りで弾き返さなければ、このまま立ち上がれなくなってしまう。
「っ、そんなん言うなら、財前も諦めた方がええわ。俺、お前みたいに性格悪い奴、大が付くほど嫌いやからな」
勝った、と思ったのに財前は何も堪えていないような顔で、俺に警告してきた。
「白石さん、あんまり俺を挑発せん方がええと思いますよ。白石さんの大嫌いな俺が、白石さんの大好きな謙也さんと引っ付くのが一番嫌でしょ?」
生殺与奪の権を握られた感じがした。
確かにこの三角形はすべての辺が等しかったはずなのに、こうやって財前が揺らすから、時折力関係を錯覚してしまう。
本当に、謙也はこんな奴のどこがいいのだろう。生意気にも程がある。口が立つから口喧嘩ではなかなか勝てないことも一層腹立たしい。
「……謙也に本性全部喋ったるわ」
「喋らんくても、謙也さんはたぶん全部気付いとりますよ」
財前の言葉の意味は図りかねた。全部気付いているって、どこからどこまで。財前の本性も、……俺の気持ちも?だったら、さっき財前が俺を捜していた理由も?
確かに空は暗かったが、それとは別に目の前が暗くなる気がした。謙也、お前はそんなに演技の上手い奴だったか?
いや、きっと財前は俺を混乱させるため、でたらめを言っているのだ。そうに違いない。
自分が「そうであればいい」と思う想像を、信じたいのに信じきれなかった。
「やから、センパイはそないな足引っ張るような真似せんと、堂々としてればええんスわ。
……悪者は俺だけで十分、役足りてるんで」
暗闇に財前の黒髪が溶け出している。何故か最後の切なげな声が耳に残った。
財前を許す気にはなれないが、少しだけ財前と俺は同じなのかもしれないと思う。強がっていないと相手の言葉で潰れてしまいそうだから、また酷い悪態を吐いて、互いにそれを繰り返して。だとしたら、そんなにも悪辣な言葉で守らなければいけないほどの攻撃を、俺も財前にしているのだろうか?
ほんの少し芽生えた罪悪感を、首を振って打ち消した。
……同情なんてするだけ無駄だ。俺は財前と同類なんかじゃない。
攻撃は最大の防御、攻撃の手を休めれば自分がやられてしまう。
無惨な負けは嫌だ。戦うなら勝ちたい。
「勝ったモン勝ち」、俺たちのモットーは俺たちを縛り続ける。
勝つためなら相手をどれだけ傷付けようと、知ったことではなかった。そして、その戦いの最中に自分がどれだけ傷付いたって。
「財前、そんな弱さを見せても俺は同情なんてせぇへんで。どうせそれも計算のうちやろ」
「後輩のこと完全に疑ってかかるあたり、センパイもええ性格してはると思いますよ」
「……ホンマ、ウザい奴」
「褒められたと思っときますわ」
ついに闇は濃く降りかかって、扉の前から動かずにいた俺とフェンスに凭れていた財前の顔を見えなくした。
お互いの表情も見えないまま手探りで憎しみをぶつけ合って、何の意義もない時間を過ごす。これが青春の一部かと思えば、溜息が出た。
「今度謙也を巻き込んでくだらんことしてみ、次は許さへんからな」
ハイハイ、と誠意のない返事が聞こえた。これ以上何を言っても無駄だ。俺は背を向けて、扉を開ける。
「財前も風邪引かんうちに早よ帰りや」
後ろでバタン!と大きな音を立てて扉が閉まる。俺は立ち止まることが怖くて一息に階段を駆け下りた。今更になって、財前に言われた言葉が胸を刺す。途中で涙が出てきてしゃがみこみそうになったけれど、自分を鼓舞して足を前に出した。涙の雫をばらまきながら階段を駆け下りても、謙也が追い掛けてくることはない。ガラスの靴も持ってない、清い性格もしていない。それは財前も同じはずなのに、何故。
強い感情に当てられて、頭痛がする。
俺は財前と謙也、どちらを選べばいいのか。
それとも、どちらも選ばない?
俺は、
【Q3.】
→もう逃げてしまいたい。
→それでも選ぶしかない。
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