可笑しな事もあるものだ。
神室町、とある寺院墓地の墓石の前で男はぼやりと霞む眩い青空を眺め思い耽っていた。
彼の姿は、誰にも見えない。いや、見えないだけでなく触れられない、声が聞こえない等。
彼は死んだ身であった。
男の名は浜崎豪。あの東城会の若頭補佐を務めた幹部であり、直系浜崎組の組長でもあった男だ。言えば彼の人生は華やかだった、と言えるだろう。彼は頭脳派で金を稼ぐのも上手かった。人を黙し、のし上がり、ありとあらゆる策を使って己の野望を叶えるべく、そう歩んで来た。
だが彼はそんな人生に満足はしていなかった。極道と言う職業柄、人を欺き、殺め手を染めて来た。その中で彼は何度も何度も裏切りを繰り返して来た。別にそれが苦痛だった訳でも無い。彼にとってはそれが当然だった。
だが彼が死ぬ一年前、2009年に起きた東城会の跡目争いに敗れ全てを失った時。桐生と言う男に手を差し伸べられたのだ。桐生は浜崎を「信じる」と言った。浜崎にとって、それは理解し難い物だった。その後彼は腹いせに桐生を刺し、殺人未遂で沖縄第弐刑務所へと投獄された。
そしてその刑務所内で出会ったのが冴島と言う男だ。浜崎は冴島と刑務所を脱獄する際に冴島に心打たれ「兄弟」とまで呼び合える仲になった。
冴島もまた、彼を「信じる」と言ったのだ。
浜崎は自分が他人を信じる事も、他人に信じられる事も無いと思っていた。何せ、裏切りの連鎖の様な人生を送っていたのだから。死に際に起こったその二つの出来事に、浜崎は少し擽ったく感じながらも満足はしていた。
そんな彼は今、死後の世界を彷徨っている訳だが。俗に言う幽霊である。彼の遺体は桐生が営む養護施設のアサガオに引き取られ、沖縄で火葬をした後に遺骨を神室町のこの寺院墓地に収骨した。それからこの懐かしき神室町でずっと思い耽っている。彼は死後の世界が存在していた事に少し面食らっていたが今はもう慣れた。浜崎家之墓と、丁寧に彫られた自身の肉体が眠る墓の前で、ずっと独りだった。
「…………」
突然だった。この寺院墓地の寺僧であろう、袈裟を着た女性が浜崎の墓に突然に酒をかけた。見た目からして外国人だろうか。浜崎は勿論驚いていた。赤の他人の墓に酒をかけるなんて、どうかしているんじゃないかと。
「………あれ、ごめん。喜んでない?」
だがその後の女の態度にはもっと驚愕した。視線が合う。自分の顔を覗き込んで神妙な顔をしている。しかも話し掛けて来た。周囲に人はいない。恐らく自分自身にだろうと浜崎は目を丸くする。
「えーと、ごめんね。最近良く見掛けるから、何かしてあげようと思って。お酒とか好きじゃない?」
淡々と喋る彼女に酷く混乱する浜崎。思えば彼女は日本語を話している。実に悠長に。日本人と何ら変わりない、違和感が全く無い程に。
「……お前、俺が見えてんのか?」
「あーうん。私、視えるんだよね」
サラリと言う僧の女に数回瞬きをして浜崎は黙り込んだ。こんな事があるのかと。今まで自身に気が付く人間など居なかったし、そもそも幽霊は生きた人間に認識されないものだと思い込んでいた。
「いやお前何やってんだよ」
驚く浜崎を他所に彼女はまた酒瓶をひっくり返して墓石に酒をかけた。咄嗟に浜崎が声をかけると透き通った新橋色の瞳を浜崎へと向けた。
「暗い顔してるから」
「いや、暗い顔してる幽霊見て何とも思わねえのか…って何でそれで墓に酒かけるんだ意味がわからねえ」
「美味しいのに」
「幽霊が酒飲めるかってんだ」
「飲めない事も無い筈だよ、何の為にお供物があると思ってんの」
酒瓶を徐に浜崎の墓石の前へと起き彼女は手を合わせ何やら経の様な物を唱えた。
「好きなんだよね、極道殺し」
「縁起でも無ェ酒ぶっかけてんじゃねえ!」
浜崎が酒瓶を倒す、それを見て目をぱちくりとさせる女性。
「何でそんな怒ってんの」
「…俺ぁ生きてた頃は極道やってたからだよ、良いからさっさと」
「Japanese mafia?はー、成程ね〜」
石段に腰を掛けて座る浜崎に寄り、じいと顔を除き込む。先程から浜崎はずっとこの女性のペースが掴めず困惑していた。
「でも悪い人じゃ無さそう、名前は?」
「は?」
「名前」
「……浜崎、浜崎豪だ」
それを聞いた女性は目を丸くする。するとにまりと浮かべていた仏頂面を崩し、柔らかく微笑んだ。
「へえ、あんた浜崎豪って言うの。じゃあ、豪ね。」
「…………あ?」
一瞬その表情に見惚れてしまっていた浜崎が顔を顰める。さり気なく呼び捨て、しかも下の名前でだ。その上さっきからタメ口で、死んでるとは言え極道相手にこの態度である。
「墓にずっといんの退屈でしょ」
「…まぁなぁ。」
彼の頭に浮かんだのは東城会だった。乗っ取ろうと計画を企んではいたがずっと属していた組織だ。何の思い入れも無い訳じゃない。正直、あの事件後どうなったか気がかりであった。
「丁度良かった、話し相手になってくれない?」
「話し相手だ???」
「私の名前はアンネリッテ。アンネリッテ・エッシャー。」
「…やっぱ日本人じゃねえか」
「オランダ出身」
彼女、アンネリッテはオランダ人らしい。にしても凄い人物がいた物だ。幽霊が見えて、怖いもの知らずで寺僧をやっているオランダ人。濃すぎる。たったの数分でアンネリッテにうんざりとした浜崎であったが彼女に全く興味が無い訳では無かった。何より。
「じゃあ豪、今度お墓掃除しに来るから。そん時宜しくね」
退屈だった死後の生活に突然叩き込まれた刺激物に、全く絆されていない訳じゃ無かった。
「…勝手にしろ」
「そうするつもり」
笑ったアンネリッテは控えめに手を振る。まだ浜崎はアンネリッテに完全に警戒を解いた訳では無いが出会って僅かで幾らか彼女に気持ちを許してしまった。全くおっかない女に会ってしまったと浜崎は溜息をつく。
そんな自由奔放な彼女の家に転がり込んだ挙句、「死んだら嫁に貰って」と、生涯にも死後にも経験した事が無かった逆プロポーズを浜崎が受けるのは、まだ少し先の話。