神室町を爆煙が包み込む。火の粉が散り、何処か怪し気な煙がもくもくと立ち込めている。車や建物は崩壊し、住人だった人々は呻きを上げながら荒廃した町を徘徊する。
「ふう。」
神室町に住む寺僧、アンネリッテ。流石の彼女も今回の事には少し眉を動かした。いつもの様に、職場である寺院墓地で枯葉を掃いていた時の事だ。爆音が遠くから聞こえ何かと思えば煙が上がっている。町の異常に気が付いたアンネリッテが次に目にしたのは、目の前の墓石の下から這いずり出る手。
神室町を、ゾンビが襲った。
信じ難い事だが現実である。墓から死んだ筈の死体が出てくればそりゃ誰だって驚く。しかしアンネリッテはやはり普通の女性とは違うらしい。その光景を目にした彼女は寺院の蔵から長らく使用されていなかったチェーンソーを手に取り、勇敢にもゾンビに立ち向かって行ったのだ。
そして今だ。
神室町の一部が自衛隊に閉鎖されてから数日は経った。彼女は封鎖されたエリア内に残された住民の一人であった。いくら自衛隊とは言え、不死身のゾンビを相手するなんぞ堪ったものじゃない。即座に壁を隔て、感染者を隔離し生き残った人々を守る事に専念した。
取り残された人間もそれこそ堪ったものでは無いが。自衛隊を批判する者も居たがアンネリッテはそうでは無かった。苦渋の決断だっただろう。戦って無駄に戦力を失い、加えてゾンビを増やす事も無く人々の救出に力を注ぐ事を選択したのだ。犠牲が全く無い訳では無いが状況が状況。自衛隊の隊員達も良くやっている、立派なものだ。そう思いながら今日も彼女は一人チェーンソー片手にゾンビを一掃していた。彼女は本当に一般人なんだろうか。
「…アン。」
アンネリッテを呼ぶ声がした。彼女とっては懐かしい声だった。町がこんな状態になってしまったからなのか暫く"この世のものじゃない"者達とは会う事が無かった。死人が蘇ってその足で街中を彷徨っているのだ。きっとそれが原因だろう、とアンネリッテは判断していたが。
「豪」
振り返って視界に入った人物はやはり知り合いだった。
浜崎豪。アンネリッテの想い人である。
「妙な事になっちまったなあ、神室町も。」
「…待って。喋れるの?」
他のゾンビは唸るか吠えるか、つまり会話が不可能なのだ。どうも浜崎は違うらしい。見た目は確かに感染者と同じ、赤い瞳に痛々しい傷。流血だってしている。肌の色も浅黒くなっている。いや、元から浜崎は色黒ではあったが。
「どうやらそうみてぇだな。…お前、それで生きてたのかよ…」
浜崎が若干引き気味で視線をやったのはアンネリッテがしっかりと取っ手を握りしめているチェーンソーだった。無理もない。誰だってオランダ人の寺僧が動く死体を見ても臆する事無くその死体を一掃すれば引くだろう。ドン引き必須である。
「まぁね。…でもその方が楽でしょ」
アンネリッテは意味深な顔を浮かべた。浜崎がそれを見て何となく察する。何と言うか、アンネリッテは冷静沈着で、不器用かつ雑な上に飄々とした人間だが、関わってみればその外面と内面は大分違う女性だ。心が澄み切っており、ばっさりとした態度で冷たく見えるがそんな事は無い。寧ろ彼女は今の時代には珍しいタイプの、温かく情の厚い人間だ。
そんな彼女がゾンビに手をかけるのは、大方想像が付く。休ませてやっているのだろう。一度眠りに付いた人間が甦り見境も無く人を襲うなんてあってはならない。例え相手が友人だろうと恋人だろうと家族だろうと、意思の持たないゾンビには関係無い。何て悲しい事だろう。まるで悲劇だ。だからアンネリッテは自らその腕を奮っている訳だ。僧侶として目を背ける訳にはいかない出来事だった。
「……お人好しだな」
浜崎は溜息をついて頭を掻いた。全くもってその通りである。赤の他人、しかも襲いかかってくるゾンビ相手にここまでしてやれるかと。浜崎の皮肉には一切耳を貸さずアンネリッテはずかずかと浜崎に駆け寄った。
「……なんか、髪伸びてない?格好も違う。」
どう言う訳かゾンビとなった浜崎は死に際、世話になった桐生に借りていた服装でも無く、刑務所で刈られた坊主頭でも無かった。彼が死ぬ一年前の、2009年。まだ浜崎が東城会の幹部だった頃の姿である。正しく生前の姿、と言う訳だ。
アンネリッテは目をぱちくりとさせる。スーツと高そうな蛇革の革靴にコインのネックレス。正直似合わないリーゼントヘア。
「…………」
「何笑ってんだお前」
アンネリッテには少しばかり耐えられなかった。彼女は基本澄ました無表情だが全く表情を変えない訳でも無い。特に、浜崎絡みだと笑いの沸点がかなり低くなるらしく今もくつくつと目を細めて口を抑えて笑いを堪えている。
「ごめん、凄い柄悪いから。でも良いじゃん。カッコイイ。」
片方だけ口角を上げたアンネリッテは意地悪そうに笑った。馬鹿にされた様な気分の浜崎は頗る決まりが悪い。あからさまに不機嫌そうな顔を浮かべ、見る見るそれを険しくさせる浜崎を見てアンネリッテはまた微笑んだ。
「悪くは無いよ。私は好き。」
アンネリッテの感想に言葉を詰まらせた浜崎は咄嗟に目を逸らした。同時に鼓動が早まり、何だか気分が悪くなって来た。身体がおかしい。言う事を聞かなくなりつつある。焦りを感じた浜崎は確信した、このままではアンネリッテが危険だと。疼く身体を必死に抑え低い声で「もう良い。行け」とだけ吐いた。
アンネリッテが一度瞬きをした後その場に座り込んだ浜崎に近寄る。
「オイ、聞いてんのか…!」
「うん、聞いてるよ」
アンネリッテもさっきとは打って変わって真剣な面立ちをしている。浜崎はまた言葉が見つからなくなった。
「…そっか。殺したいの」
アンネリッテのその問いかけがその場に響いた。周囲は地獄、爆発音に悲鳴に銃声、決して静かな訳では無いのに。浜崎の頭の中にはその言葉だけが残っていた。
「っ、アン……」
「いいよ。おいで」
「は?」
さぁと言わんばかりに両手を広げるアンネリッテに素っ頓狂な声を出す浜崎。殺したいのかと問を投げるぐらいだ、状況を理解していない訳でもあるまい。のに、この対応である。何かを考える様子も無く即答でそう言った。
「あー、でもどうしようね。それじゃあ豪に罪被せるみたいになるしな、感染すれば良いんだっけ。じゃあ豪私の事噛める?」
ぐいぐい話を進めるアンネリッテに浜崎はぽかんとする。淡々と言っているが彼女が言っているのは“感染して死ぬ”場合の話だ。
「お前…っ!」
「死に急ぐつもりは無いけど、死に直面するんなら悪足掻きする気も無い。だから私が死ぬのは事故か病気か寿命、人に殺しの罪着せるつもりもないからね。」
動揺する浜崎に構わず、彼女は語る。
「豪も過去に殺しをやってる訳だし、どうせ行く先は地獄でしょ。私は仏教徒だけどキリストさん所の教えじゃ自殺は最も罪が重いって言うし。それで二人仲良く地獄で良いでしょ」
浜崎の前にしゃがみ込んで、アンネリッテは髪をくしゃりと撫でた。
「豪だけに寂しい思いはさせたくない」
目尻を下げるアンネリッテは綺麗だ。雀斑がある頬を薄く染め、口元に橙色の弧を描く。流れは完全にアンネリッテが握っている。浜崎の負けである。だが、このままアンネリッテに勝利を譲る訳にも行かない。
「……いらねぇよ、寂しくもねえ。今のまんまで充分だ。そりゃあ有難迷惑ってんだ」
「…そ。余計だったか。」
スっと立ち上がりアンネリッテは溜息を付いた。だがその後ほくそ笑みながら首筋を撫で「まあ噛みたくなったら提供はするよ」と挑発的な態度を取った。
「ふざけんな。……と言うか何だ、その痕。」
「ん?あーピアスの排除痕。…キスマークだと思った?」
「うるせえ」
「思ったんだ」
「うるせえな。」
「まあ似た様なモンだけどね。この位置のピアスの名称ヴァンパイアキスって言うから」
「…へえ。」
浜崎がアンネリッテの首を見る。確かに、二つの赤い痕は噛み跡に思え、位置から吸血鬼を思わせる。
「まあでも豪が噛んだらヴァンパイアキスじゃ無くなるか。」
「噛まねえっつってんだろが」
「キスマークってより歯形になりそうだし」
「人の話聞いてんのか?」
「となるとゾンビマーク?何か引越し業者みたいで嫌なんだけど」
「絶対噛まねえ。お前みたいな奴がゾンビになって堪るか」
「はいはい。」
憎まれ口を叩く浜崎にやれやれと返事をするアンネリッテ。
「なるんじゃねえぞ」
浜崎が俯いて言う。珍しく弱々しい彼の一面を見たアンネリッテは目を細める。「うん、分かってるよ」とだけ返事をし、チェーンソーを抱え騒がしい方へと足を運んだ。