『法華経最第一』
法華経法師品第十「薬王今汝に告ぐ、我が所説の諸経、しかも此の経の中に於いて、法華最も第一なり」。
『法華経の肝心』
法華経二十八品の肝要。南無妙法蓮華経の一法をいう。釈迦が法華経如来神力品第二十一で、滅後の末法弘通のため、この一法を上行菩薩に結要付属したことが述べられている。
『久遠元初』(くおんがんじょ)
久遠実成の以前のこと、久遠は遠い昔、元初の元は根本、初は初め、始まりをいう。生命と宇宙の始まりの時をあらわしているのが久遠元初であり、久遠(五百塵点劫)に成道した釈迦の本因の時である。 しかし、御義口伝巻下に
「久遠とははたらかず、つくろわず、もとの儘と云う義なり」とあるように、長遠の時間を超越した、生命の究極の状態、生命に本来そなわる無作常住の仏性を覚知した姿を久遠元初という。
衆生の生命は、過去・現在の行為、外界からの影響によって様々な業をまとっているが、その業の深奥に生命本来の清浄の本体がある。
この本来の生命の姿を久遠元初といい、また南無妙法蓮華経という。
『正直捨方便』(しょうじきしゃほうべん)
「正直に方便を捨つ」と読む。法華経品第二の文、釈迦が四十余年間に説いてきた華厳・阿含・方等・般若等の経教は方便の教・権教であり、それらを捨てること。同品に「諸の菩薩の中に於いて、正直に方便を捨てて但無上道を説く」とある。この文を釈して法華文句巻五上には「於菩薩中の下の三句は、正しく実を顕はすなり、五乗は是れ曲にして直に非ず、通別は偏傍にして正に非ず、今は皆彼偏曲を捨てて但だ正直の一道を説くなり」とある。人・天・三乗に執着する心は曲であり、通教・別教は偏った教説である。故にいまは方便権教を廃して正直の法である法華経を説くのである、との意。