しん、とした畳の匂いが充満する部屋で、いつもの和服と父に言われ伸ばした薄紫の髪を高く結わえた姿で精神を落ち着かせるように瞳を閉じた。
こんなにも心が乱れたのはいつ以来だろうか。
卒業式の日に突然京都の実家に無理矢理帰らされた時も、こんな…心がざわめいた。
嫌な予感。
その言葉がしっくりくる。
それもそう、その卒業式の日の時も実家に帰った途端、もうすぐ家を継ぐ日が近いから、と。
元々帰るつもりだったから、京都の大学を受けていた。
京都の一番、といっても過言ではない一流大学。
実力で入れたのか、はたまた父の権力かはわからない。
大学三年を修了して、一年が経った日、家を継いで当主になったわけで。
そして現在に至る。
「……五月、四日…。」
今日は五月四日。自分の誕生日の前日。それはどうでも良いのだけれど、十年前の今日…彼と付き合い始めた。
「…先生、怒って…ます、かね、」
何も、言わないで実家に帰ったわけだし、その後の連絡もしてない。
実家の場所は当然、彼は知るよしもなく。
来ても、家の者は「未来様は誰ともお会いにならない、とおっしゃっておりますので、お引き取りくださいませ。」と平然と嘘を言うだろう。電話も同じだ。
もう、名前でなんて呼べない。呼ぶ権利なんて、ない。
今日、このような日に父が決めた相手と見合いがある。
だからか、心が乱れる。
彼は自分以外と一緒になることは許さない、と言っていた。でも、大きな家に生まれれば、必ず家を残す為に結婚して子供を作らなくてはいけない。
どの道、彼に"一生"添い遂げるなんて無理だった。彼だって、それに気付いて、他の女性と一緒になっているはず、だから。
だから、もう彼の事は忘れよう。
彼の声も、仕草も、性格ににつかわぬ優しい手も、抱きしめた時に僅かに香る煙草の匂いも、自分を求めて重ねる唇も。
ぽた、と和服の上に雫が落ちた。それに気付いて慌てて拭う。
泣いてる場合ではないのに。
そのとき、襖が静かに開いた。
それに気付き、姿勢を正す。
「……何やってんの、兄貴」
「…!カゲリ、帰ってきてた、んですか…。」
すっかり父かと思っていたが、それは違くて十年ぶりに会う弟だった。
「……日本で演奏会あったから帰っただけ。明日には帰る。」
「ああ、そうだったんですか。」
久しぶりの弟の姿に乱れた心が少し落ち着いて、頬が緩む。
いつぶりかの、心からの微笑み。
カゲリは襖を閉めて中へ入れば私の前に座る。
そして、何かを探るように私の目を見据えている。
「…?どうか、しました?」
「……俺、東京で学校に寄ってさ、会ったんだよ」
学校。その言葉で落ち着いていた心が乱れる。
「っ…会ったって誰、と…?」
「………兄貴が、好きだった先公…」
どくん、と心臓が嫌な音を立てた。まだ、本当に教師を続けていたんだ。
「家のこと、聞かれた。住所、とか。」
「っ…!」
「俺は教えた。……兄貴は逃げるべきじゃない、大切な人から。俺は…、裏切っちゃった、から。」
カゲリは、そう少し目を伏せながらも言った。
つまりは彼はカゲリから、ここの住所を知った、ということ。
なんで彼は家の住所を聞いたのだろう。なんで…
そのとき、家のチャイムが響いた。彼だ、と直感的にわかった。
ざわざわと心が乱れて、苦しい。
「…行けよ、兄貴。家の奴には出るな、って伝えたからアンタが出なきゃ、大事な客人が玄関で待ちぼうけだけど、ご当主?」
「カゲリ…」
そうだ、いい機会だから、謝ろう。
謝って、私を忘れるように、今日見合いをして、結婚するんだ、と言おう、それで彼とは終わりだ。
彼も私も楽になる。
ゆっくりと立ち上がり、襖を開ける。
「家の事なしで、自分の気持ち言って来いよ、兄貴。」
出て襖を閉める寸前にカゲリの妙に優しい声が聞こえた。
長い廊下を歩き、広い庭を視線の横にいれながらも玄関へ向かう。
きっと門の前には彼がいる。それは何故だかわかる。
「み、未来様、門の前に見知らぬ御仁がいらっしゃってますが…」
「私の高校時代の恩師です。客室にお通ししてください。」
そう柔らかく微笑みかければ、女性の使用人は少し頬を赤くし、ぽう、としてから、はい、!と廊下を歩いていった。
そうだ、話せばわかってくれる。
というより、私のことなんか好きではなくて、結婚した、とかそういう報告にきたのかもしれない。
その時は、ちゃんと笑顔でおめでとう、を言えるように。
(もう…あの人のことは、想っちゃ…いけない。)
自分に言い聞かせるように心の中で呟いて、客室の襖を開けて中に入る。
そして、また正座をして、まさに客人を迎える姿勢でいる。
その、襖が開くその時をー…
溶かしきれない気持ち
(私は今でも、)(許されない気持ちを抱いている、)
(ごめんなさい、)
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