十年前と同じ空港に今、立っている。


久しぶりの日本に僅かに目を細める。

あの日…、卒業式の日に先輩も同級生も後輩、そして……恋人さえなげうってまで、留学した。

連絡先を言ったのは、家族だけ。
その家族には、絶対に連絡先を言わぬように釘を刺した。


兄貴は、せめて大切な一人には、と言っていたが、俺は断った。

大切な人だからこそ言えなかった。
きっと連絡しあえば、いつか弱音を彼に言ってしまうだろうから。

何十年も待ってくれる、なんて思っていない。半ば失踪した奴なんかには愛想をつかしてもおかしくないから。

それに、待ってて、なんてのも言ってない。彼と交わした最後の会話は、


"カゲリ、なんかこのあと卒業祝いの食事会あるらしいけど、行く?"

"あー…、悪い、俺用事あるから帰るわ。"

"そっか、用事あるなら仕方ない、よな。じゃあ、また連絡するから、"

"ああ、わかった。じゃあな。"


その後の彼から来たメールは確かに見たが、返さなかった。

携帯も、変えた。
メールをしてエラーになり、電話も通じないのを知った彼はきっと、俺に失望しただろう。


俺は別に嫌いになったわけじゃない。
正直いえば、まだ慕う気持ちは、ある。そうでなきゃ、貰った指輪を左手の薬指になんかつけない。
自分から消息を絶ったのに、なんて未練がましいんだ。


俺の夢は、柄にもなくピアニストだった。
高二の時、彼にビアノを弾いて聴かせた時に彼は褒めてくれた。
自分のピアノで、誰かを癒せたり喜ばせたりできるのだ、と気付いた。

だから、やるからは本気でやりたかった。
音楽の地、オーストリアに留学を決めた。


向こうで音楽の専門大学に入り、徹底的に勉強した。そして、卒業して、ある楽団から誘いがきて、承諾した。
それなりに名は通る、楽団。だからと言って、大楽団というわけではない、こぢんまりとしたアットホームな楽団。

普段は国内か、ヨーロッパを巡り演奏会をする。
だが、今回何の巡り会わせに日本で演奏会をすることになった。


日本といっても広い。彼に会う確率はかなり低い。



地図を見ながら、演奏会をするホール近くのホテルを目指す。


「あ、れ……ここ、は…」


思わず声を出してしまったのは、あまりに懐かしいものがあったから。


「ここのバー、まだあったのか…」

よく、彼と二人できた、思い出の場所。懐かしくて、胸が締め付けられる。


「そう、か…ここ、学校の近く、か…。」


地図をしまって、辺りを見回せば、懐かしい風景が変わらずあった。
久しぶりに母校に行きたくなり、足はそちらに向いていた。

今頃は、桜が見れるだろうな、と思いつつ、十年経っても覚えている道を歩く。


「…このホテルも健在、か。」


苦笑混じりに呟き見上げたホテルも彼との思い出がたくさんある。
待ち合わせしては、行為を繰り返していた。あの感覚は、今でも覚えている。


「……若かったんだよな、あの頃は。」


若干顔が赤くなるのを感じながら、ホテル前を通り過ぎて散歩道を抜ければ、母校が変わらずそこにあった。

今は春休みで生徒の姿はない。
校門をくぐり、視線の端で桜の木を見上げる人の姿を見つけた。


(休みにまでこんな小さい桜の木を見に来る酔狂な奴が俺以外にいたとは…)


そちらへ目線をやれば、完全にその人物が目に入る。その姿を見れば、俺は石みたいに動けなくなった。

見間違えるわけがない、あの横顔、


「っ……凍、矢…、」


小さい声で、僅かに震える声で聞こえぬようその名を紡ぐ。

忘れたくとも、忘れなかった、彼。

ざあっと、風が吹けば、桜の花びらが宙に舞う。突風に彼の紫色の髪が靡き、はたはたと白衣が煽られている。
そしてふと、こちらに視線が向いた。

目が、合った。

俺を視界に捉えた彼の瞳は、少し動揺に揺れていた。
俺だということくらいわかってしまう、彼には。
まずい、まだ会うつもりはないのに、足が棒みたいに動かない。


「っ、カゲリ、?」


久しぶりに聞く、心地好い彼の声音。否定も肯定もできない俺は、ようやく言うことを聞いた足で、ゆっくりだが、後ろに下がる。


色々なものがこみあげてきて目頭が熱くなる。視界が歪む。

ば、と向きを変えて走る。


「カゲリ!」


後ろから、自分のではない駆ける音と、彼の、俺を呼ぶ声。

追いかけてなんかくるなよ、俺はお前と合わせる顔なんてないんだ、

俺より体力で勝る彼に負けるのは時間はそうかからなくて、ぱし、と腕を掴まれる。


「っはあ、やっと、捕まえた」


さすがに息切れした彼が言う。無意識なのだろうが、俺の腕を離さんとする手の力からは、必死さが感じられた。


「…カゲリ、俺は、」

「っ、離せッ…!」


腕を掴む手を振り払うのなんて、武道を習っていた俺には安易な事だった。

思い切り振り払えば、彼の傷ついたような、切なそうな表情。

どくん、と心臓が嫌な音を立てた。
散々彼を傷付けたことはわかっていたのに。


「……カゲリは、俺の事嫌いになった?」


振り払われ行き場をなくした手を下ろし、僅かに目を伏せて彼はぽつりと俺に問う。

"どこに行っていたんだ"とか"何で連絡先を教えなかったんだ"とかじゃなくて、それだけを俺に尋ねた。

彼は今だに俺を想っていてくれている。

じゃなきゃ、左手の薬指に俺があげた指輪をしていないから。


「っ…お、れは……」


喉につっかかって言葉がでない。


何を言おうとしているんだ?



"まだお前が好きだ"?

俺にはそんなことを言う権利はない。十年間も自分勝手な理由で姿を消して。

それでまだ好き、なんて身勝手だ。

しかも俺は、まだ日本に帰るつもりはない。演奏会が終わればまた、オーストリアに帰る。

また、置いていってしまうなら、いっそここで…終わりにしてしまえばいいのかもしれない。


もう、傷付けたくない。幸せになってほしい、俺みたいな身勝手な奴は忘れてー…


また、目頭が熱くなって、暖かい雫が頬を伝う。
慌てて拭おうとしたら、腕をぐい、と引かれて抱きしめられる。


「っ…!」

「お願い、俺の話聞いて…?」


強められた腕は逃げないくれ、と言っているようで。



だから、俺は逃げられないんだ。






(其の優しい腕が、)(俺の決意を揺らす)




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