あの純粋な微笑みを浮かべた愛妻が消えてしまってから、自分はとても魂が抜けた様に呆然としている事が多かった。 聖母マリアのステンドグラスが、ぼろぼろに寂れた教会内を照らし、その仄かな暖かさと云い清らかになりそうな光がその場をあたかも楽園と見間違えそうに思える。この教会に何度も訪れ、聖母マリアのステンドグラスの下で跪き、手を組み、瞳を閉じて届きもせぬ想いを懇願する行為を繰り返す。 ステンドグラスに閉じ込められた聖母マリアは、何の理屈があろうとも憎悪を持たず、ただ純粋に微笑みを浮かべて見下ろしている。 ――何故そんなにも憎悪も絶望も無く純粋に微笑んで居られるのだろうか。 だが純粋な微笑みを浮かべるだけしか出来ない聖母でさえ、その行為は裏を返せば純粋から不純に変わることもあるのに。 「おや……ルキウス。毎度毎度この教会で何をしているのかね?」 「……ノア」 「ほう。その様子では随分と昔より変わってしまったようだね。それも反逆者である君には当たり前だが」 「要らん事を……ただな。――このマリアが不純に思えただけだ」 背後に現れた黒い影に、振り向きもせず独特な問いかけに答えた。自分でも分かる程、喉から出た言葉は孤独に消えそうだ。 黒い影は黒装束のローブを纏うたけの変わった男。コツコツと戸惑いもない足音をわざと教会内に響かせつつ、同じ聖母マリアのステンドグラスの真下で立ち止まった。 この男は、かつての親友でもあり敵だった。何故に親しみ深かった関係は敵同士と云う崩壊へ導かれたのかは解らない。その時自分は、一人の“反逆者”として男の元から立ち去った。 それから全てが変わってしまった。 愛した妻も、愛した娘も今や歴史の闇に葬られたのだ。 自分が、反逆者として立ち去らなければ。 「…………イリアは、私と居て幸福だったのだろうか。私の所為で、イリアは……イリアは……」 「其れは歴史の闇に葬られて以来、もう終わった事だよルキウス。……確かに君は反逆者だったが――歴史の一つとして預言書に書かれた事だ。誇りに思うのも悪いとは思わなくはないかね?」 「……さぁな」 「イリアの件は私こそ残念だ。彼女は……そうだな、あの微笑みはこの聖母マリアと同じように美しかった」 脳裏に浮かぶ愛妻の微笑みは、男の云う通り、天使の様に美しかった。 だが、私が反逆者にならなければ、彼女は今でも純粋な微笑みを私に向けてくれていただろうに。 “ふふっ、ルキウス。見てくださいな。この可愛らしい赤ちゃんを” 「……我慢はしなくて良いんじゃないのかい、ルキウス?」 “そうね、名前は何が良いかしら? ――そうだわ、貴方と同じ純粋に力強くはばたける様な、ルキアと名付けましょう……” 不意に心中でじわじわと沸き上がる絶望と苦悶、後悔と懺悔――その想いは一生、彼女に届く事は無い。 愛を無くした孤独な日々を、毎日毎日この聖母に懇願する。 せめて、私の側に居てくれるだけでも良いのだから―― 「――……っ、う……っ……ひく、う、うぅ……っ」 「……我慢してはならないよ。泣きたい時は素直に泣く事だ、ルキウス……」 側に居た男の胸で、私は静かに泣いた。 聖母は純粋であり不純だ (誰か、この懇願を最愛のあの人へ伝えて下さい) end. それっぽくないですが一応ノアルキ。 しかし何故かイリアに対してのお話。でも一応ノアルキ。 |