※3Z設定
傾斜角度はどれ位あるのか。何てどうでもよいことなのだろう。自分にとって重要なのは、坂を上るには体力を余分に残しておかなければいけないということと坂を上りきれば自宅の冷蔵庫に眠る雪見大福が自分の胃の中に収められるのも時間の問題だということだった。冬らしさの欠片もない日差しが髪をじりじりと焼いていく。あまりの熱に滲み出る汗も僅かとは呼べない量となってきた。ふと後ろを振り返る。去年の夏祭りに掬った金魚の様子を見せてくれと自分に迫ってきた女が悲鳴を上げていた。
「オイ。バテるのには早すぎるぜィ」
「う…るさいネ」
辛そうに顔を歪めながら、それでも必死に一歩一歩足を前に出す少女に手を貸そうという気はさらさらなかった。こっちだって一杯一杯なのだ。だいたい太陽に弱いなら、何も今日にしなくともいいじゃないか。300円で掬った2匹の金魚は毎日元気よく水槽の中を泳ぎ回っているし、明日だって明後日だって見ようと思えば見える。
それに朝ごはんのトーストを齧りながらちらりと目にした液晶画面に映っていたアナウンサーによれば、明後日は少女の得意分野らしい雨という予報だった気がする。
「世話のかかる小娘だな」
冷蔵庫で柔らかな曲線美と甘さを持ち合わせる満月2つ入っていると少女が知れば、確実にそれらを瞬きをする間に噛り付いてしまうに違いない。月は綺麗で大人しいから好き。夏祭りの夜空の下で少女がうっとりと語ったことを律儀にも覚えていた。後ろに高々と浮かぶ太陽が嫌いなら尚更2つとも食い尽くしてしまうだろう。それだけは如何にかして避けたい。
しかしながら、後ろでひぃひぃと荒い息を吐く少女が道路の真ん中で顔面強打するんじゃないかと危惧した沖田は仕方なく数歩下がって静脈の紫が滲む白い手首を強く掴んだ。
「私と歳変わらないくせに偉そうアル」
「これで貸し一つな」
「げぇ」
今では当たり前のことのようになっているが、「一緒に並んで歩いて帰る」。それは奇跡的な確率で起きている奇跡だ。さすがに毎日神様に感謝するわけにもいかないが、それでも同じ年に生まれて、同じ地域にお互い暮し初めて、同じ高校に通い始めて、変人が集っている同じクラスになって、週番が名前順で決められる、という数々の偶然を自分は見事勝ち取ることができたことは本当に運命以外の何物でもない気がしてくる。
自分はサディスティックとみせかけたロマンチストだったのか。誰に御礼を言えばいいのか分からないが、とりあえず清々しい程の青を仰いで拝むとしよう。
「屋台のビニールプールの次はサディストの家の水槽かぁ。つくづく哀れな金魚達アルな」
「失礼なこと言うな。金魚、二匹とも元気だから。ピンピンだから」
「この目で見るまでは信用ならないネ」
「あっそ」
まるで自分達のように元気だ。心配しなくていい。そういう意味も勿論含んでいたが、口内と喉の間に留まった、つまり宙に放り投げられなかった想いはそれとは違った。水槽という狭い空間に閉じ込められ泳がされている二匹の金魚が羨ましくて仕方ない。片方が海にも川にも泳いでいく心配がない。離れ離れになることもなく、限られた世界で一生を共にする。例えば海を挟んだ大陸に帰ってしまうこともない。
「サドー。休憩したいアル」
「ばーか。こんな坂の途中で休憩とかただの自殺行為だろ」
「レディーを気遣うことも出来ないアルかお前は」
「誰がレディ?あ、金魚のこと?」
「いっぺん坂の下まで落ちてこい」
ちゃぷん。突然、汗ばんだ耳元で蘇ったのは金魚が水槽の中で跳ねる音だった。跳ねるだけならいい。落下地点は変わらない。そろりと泳いでいくのは駄目だ。行き着く場所が変わってしまう。
「チャイナ」
「あ?」
明らかに不機嫌な声が耳元から遠く離れた場所で聞こえる。
「泳ぐの得意?」
「泳いだことないアル」
よかった、と安堵するにはまだ早い。早く二人で暮らせる空間を、水槽を用意することが先決だ。雪見だいふくのことはすっかり頭から抜け落ちたらしい沖田は、残された半年を如何にして過ごすかを考えるために遠くに見える冬の鰯雲を仰いだ。
回想金魚