一年に一度のバレンタインは女の女による女のための日、ではない。女が男に想いを伝えるためのロマンチックな日である。という思考に切り替えたのは、ついさっきのことだった。そしてそれと同時に今の自分がとてもつもなく甘いものを必要としているということを思い出した。
些細なことで乱闘を繰り広げ互いの身体に傷を作りあった高校生の頃とは違う意味ではあるが、今も互いの身体に傷を作る。自分は彼の背中に爪を立て、彼は自分の首筋と鎖骨に鬱血のような赤紫を残す。
目の前で無防備な寝顔を魅せつける沖田の頬を神楽は軽く抓ってやった。男のくせに女よりも肌理の細かい白い肌や通った鼻筋や長い睫毛の全てが自分の胸をきゅんと締め付ける。
腰の辺りでしっかりと交差された沖田の腕から抜け出すこともできず、ひたすら一人でこんな感情を味わうのは何だか癪に障る。奴の首筋にフレンチネイルがほんの僅かだけ剥げている爪を立てるが逆に自分を拘束する腕の力は強まった。
「もう朝か。」
「寝惚けるのもいい加減にしろヨ。まだ夜中アル。」
「まじでか。じゃあもう一回できるじゃん。」
「起さなきゃよかった。」
今こうして自分を抱いている男に気を許すようになったのは多分お互いがセーラー服と学ランに身を包んでいた頃から。だが、それをはるかに超えた愛しいという感情を持つようになったのは何時の頃からだったのか。もしかしたら、とっくの昔に、あの時のクリームとマショマロと一緒に溶け出していたのかもしれない。
***
「マジ死ネ。この神楽様にアイスティーぶっ掛けるとはいい度胸アル。」
「すみません。」
「しかも冬に氷水かけられても全く嬉しくないネ。風邪ひくだけヨ。」
「すみません。」
「冬服だから下着も透けねェし。ザキ、どうせならもっと際どい場所狙えば…」
「お前は黙ってろ。」
店の奥にある事務所でひたすら平謝りする山崎と机に肘をつき事の成り行きを面白そうに眺める沖田に囲まれながら渡された白いタオルで首を拭く神楽の怒りは既に沸点に達していた。外された眼鏡と髪飾りは沖田が肘をついている机の上に置かれており、すでに使用済みのタオル2枚程も乾かすように椅子の背もたれに掛けられている。濡れた髪が既に乾き始めたことだけが唯一の救いだった。
「オイ総悟、山崎。二人で抜けられると困るんだよ。どっちかでいいから仕事しろ。できれば山崎の方がいいけどな。」
灰色の重たそうな鉄製扉から神楽に負けず不機嫌そうな表情の土方が顔を覗かせて言った。遠慮がちに自分に視線を移した山崎に気が付いた神楽は、彼の背中を渾身の力を込めて蹴り飛ばした。別に一人でも全く構わない。むしろ付き添われている方が嫌だった。
「私のことはいいからさっさと仕事戻れヨ。サドもザキも。」
そう言い放ってタオルを頭から被り視界を一面の白で覆い隠す。暫くすると扉がガチャリと閉まる音がした。もう何か踏んだり蹴ったりの最低な日だ。じんわりと喉の奥が痛むのを堪え、タオルを勢いよく取り払った。事務所の机と椅子と自分だけがぽつりと残されている、と思ったがそれ以外にも残されているものがあった。
「…何でお前が残ってるネ。仕事に戻れヨ。」
「土方さんに『元々テメェは使い物にならないから』ってポイ捨てされたんで。」
「まぁトッシーの言うとおりアルな。」
深呼吸をする。ぐっしょりと濡れた髪飾りを眺めている内に自分の中で混ざり合いながら暴れようとする感情もだいぶ落ち着いてきたらしい。ただしレンズに浮かび上がっている水滴の痕は気持ち悪かった。
パイプ椅子に足を広げて座る沖田が言葉を返さなかったため、二人の間には奇妙な沈黙が流れたままだった。教室では口論か互いに罵り合うことで常に時間を埋め、忙しいのに。気まずいのが嫌だったわけではないが調子を狂わされそうになるのを恐れた神楽は口を開いた。
「だいたいお前等いつまで連れション大好きの中二気取りアルか。いい加減集団行動から卒業した方がいいと思います。」
「そういうテメェこそ銀八の後ろにいつもくっついて金魚の糞じゃねぇかィ。」
『銀八』という言葉にぴくりと神楽の肩が上がったのを沖田は見逃さなかった。そして、やたらと彼女の瞬きの回数が増えたことにも気がつく。大きな蒼い瞳の上から下まで動く長い睫毛が今にも音をたててしまいそうだった。これは何かあったなと誰にでも推測させるような動揺の仕方に己の単純さを晒してしまったことに神楽が気が付くわけもない。
「何かあったんだろ。」
「……。」
答えようか迷ったが、正直どうにでもなれと自棄だった。どうせ今日はロクなことしか起きないらしい。ならば、とことん荒れてしまえ。
「人生最大の失恋したアル。」
「そりゃまた大袈裟な。」
「本当の事ネ。」
人生最大の失恋というのは誇張した表現でもなく、本当のことだった。何故ならそれは初めての恋であったと同時に初めての失恋だったので、比べる物も何もなかったからである。初恋は我ながらベタ過ぎる恋だったと思う。それはもう漫画家も驚くベタベタベタ塗りくらいのものである。担任に恋するなんて。
「チョコ受け取ってもらえなかったとかかィ。」
「渡す前に失恋を悟ったアル。だから自分で食べたネ。チロルチョコ。」
ずっと俯いて返事をしているものの、自分が沖田にじっと見つめられているということくらいは神楽も分かっていた。ゆっくりと顔を上げれば、案の定、焦げ茶の瞳とかち合った。
「チロルチョコって…そりゃあ力抜きすぎでさァ。」
「私なりの意味を込めてたアル。」
手作りではなく既製品を選んだのは実に賢い判断だったと思う。チロルチョコ2個なら断られても受ける衝撃は最小限に抑えられるはずだ。軽い冗談のつもりだったといくらでも言い訳することもできる。大丈夫。ほんの少しチクリと針で指先の皮を突かれるくらいの痛みしか感じることはない。そう思っていた。そう思い込んでいた。
再び押し寄せてきた喉の痛みに加えて今度は目尻が濡れてきた。浴びせられたアイスティーは全て綺麗に拭き取ったはずだったから、考える間もなく何故濡れているのかが分かる。
「チャイナも一端の女だったか。」
そんな神楽の様子に気が付いたのかそうでないのか、沖田はパイプ椅子に思いっきり背をつけて頭の後ろで腕を組みながら呟いた。油断するとバランスを崩して後ろに転倒する恐れがあるため、組んでいた足を元に戻し床につけてさりげなくバランスをとる。
「どういう意味アルか。」
「そのまんまの意味。」
ニヤリと不敵な笑みを浮かべる男はいつも教室で喧嘩を繰り広げる男と同じだった。そういえばコイツと喧嘩している時は他の事を考える余裕がない。彼との乱闘はいつも頭をからっぽにさせてくれるのだ。今こそ雑念を全て振り払いたい状況なのだが、このまま足蹴りや裏拳を披露する雰囲気は少なくとも今この空間にはなかった。
次に起すべき行動も分からずに、途方に暮れた神楽は自分のセーラー服のスカーフをそっと握ってみた。徐々に乾き始めている。よし、もう帰ろう。家の布団に頭を押し付けて、涙は後で人知れずこっそり流せばいい。
「サービスで俺お手製特別ドリンク作ってやろうか。」
揺らぐ気持ちをどうにか抑える。パイプ椅子を引っくり返す勢いで立ち上がった自分を見上げながら提案してきた男の旋毛が歪みかけた視界の中央に入ってきた。認めたくはないがバイトの制服は確かに似合っている。すらりとした奴の体つきが強調されているようでほんの少しだけ目の前の男が格好よく見えた。
「いらないアル。」
「すっげぇ甘くて美味しいやつなんだけどなァ。」
***
あの4年前のバレンタインの日に沖田が自分のために特別に作ってくれたココアにマショマロを溶かしホイップクリームとチョコチップクリームをトッピングしたドリンクは当たり前だがとてつもなく甘かった。まるでこの世に存在する糖分を全て詰め込んでいるかのようだった。あまりの甘さに飲み物をそれぞれ一口ずつ貰った他のバイトの者達は皆凄まじい表情をしていたが、まさに自分が求めていた甘さに叶うものに巡り会えた気がした。
マグカップ一杯のココアを全て飲み干すや否や、年に一度その飲み物を自分のために作って飲ませろと頼んだ。半ば嫌々だっかもしれないが高校を卒業しても沖田は約束を守り、一年に一度バレンタインの日だけ自分を店に呼び特製ドリンクをご馳走してくれた。お互いにそれぞれ恋人がいた時もそれは変わらなかった。恋人でも何でもない関係の自分達がよりによってバレンタインという日に会うことは周りからすれば奇妙な話だったかもしれないが、お互い特に気にすることもなかった。
けれど今年は少し違った。バレンタインの前日に自分の家に来ないかと沖田に誘われた。晩御飯を食べた後に出された麦茶を飲み終わると沖田は何の前ぶりもなく飲み干したばかりでまだ濡れていた自分の唇をそっと舐めてきた。身体中の熱がいっせいに自分の頬に集まっていくのがわかった。数時間前のことだった。屈んでキスをされたあの時の彼の表情は今も忘れられない。初めて見る男の顔をしていた。
「寒いアル。」
「明け方だから仕方ないだろィ。」
他人と身体を重ねるのは久しぶりだった。そのせいで最初は柄にも無く緊張していた。結局今までを埋め合わせるかのように激しく愛し合ったので、途中から緊張感は吹き飛んだ代わりに疲労感だけが残った。ついでに部屋に漂う冷たい冬の空気も肌に刺さる。
「明日授業休みアルか。」
「ゼミ。」
「じゃあ今日はもう寝るヨロシ。」
「お前いつから優等生に転職したんでさァ。」
「生まれた時からアル。」
「嘘付け。」
とりあえず落ち着いた二人はくたりと身体をベットに預けて仰向きに倒れていた。同じベットで同じ枕と毛布を共有しながら、ぶるりと身を震わせる神楽にそっと沖田は覆いかぶさった。
つい先程まで部屋に立ち込めていた熱気は何時の間にか冬の冷気に負けてしまったらしい。鼻先を擦り合わせるような啄ばむキスを続けていく内に、次第にそれは深いものとなっていく。互いの歯列をなぞり舌先を絡め合わせれば再び体温によって新たな熱が生まれ始めた。
「お前って万年どころか24時間発情期男アルな。」
「好きな女に男は欲情する生き物なんでさァ。」
板チョコを溶かすのも容易い熱を帯びた口付けが終わると、今度は互いの身体をゆっくりと擦りつけ合う。シーツとの二重の摩擦によって生まれる熱もまた堪らなく温かいのだ。そしてふと先程まで猛烈に自分が甘い物を欲していたことを思い出す。自分でも呆れるくらいすっかりそのことは頭から抜け落ちていた。
「明日もアレ飲ませろヨ。」
「いい加減に逆チョコから卒業させろ。」
「いつかネ。」
「っていうか俺バイト辞めたから作れないんだけど。」
「まじでか。」
とりあえず日付けを越えれば今年のバレンタインがやって来る。瞼の裏に浮かび上がる白い陶器のマグカップ。空になった後にこびり付くざらざらした茶色の粒。自分のためだけの甘い飲み物を舌を鳴らして飲み干したい気もするが、沖田と自分の混ざり合った唾液も負けず劣らず甘いと神楽は目を閉じながらその味に酔った。
それはマシュマロのように優しく、ココアとチョコのように甘くて、クリームの滑らかさをも感じさせるとても幸せな味だった。