吉原遊女パロ
※微微シリアス
壮大に厳かに聳え立つ大門を潜り抜け、初めて目に入れた世界。
世界が何色を帯びていたかなんて、とうの昔に忘れてしまった。
「まさかお前が花魁目指してるなんて知らなかった」
部屋の中が薄暗い夜明け前に突然呟かれた。つるりとしている卵のような自慢の自分の肌を撫でながら目を細めている男を見て、三枚のひかれた布団の上で着物を肌蹴させた女は大袈裟に驚いてみせる。
「わっちが花魁になりたいのが意外?」
「今みたいな座敷持ちで十分じゃないですかィ」
「座敷持ちだって大変なんでありんす。それにわっちはもっと上を目指したい」
「何いきなり遊女ぶってんでさァ。いつもの訛りはどうした?」
「これも修行の一つネ。あ、間違った」
「ほらみろ。言わんこっちゃねェ」
「うるさいアル。だいたい私が花魁になったらオマエは私に会えなくなるネ。せいぜい今のうちに」
拗ねたように頬を僅かに膨らませて顔を自分から背けた神楽を宥めるように、沖田は言葉を最後まで耳に入れずに彼女の腰に手を回して引き寄せた。吸いかけの煙管が布団のすぐ横に転がっていて、神楽はそっとそれを手に取った。
部屋に煙が充満することを特に気にしない男だと分かっているので、神楽は煙管を思いっきり吸ってやることに決めた。そしてふと口から吐き出した白い煙に自分の感情を乗せる術も忘れていたことを思い出す。
空気が上に昇っていくのにも限界がきたのか、やがて白い煙に二人は息苦しさを感じた。神楽は着物を軽く整えてから、覚束無い足取りで窓際へと近付く。沖田は何も言わずに布団の上で横たわったままだった。
こげ茶色の窓枠にそっと肘をつき、視線を落とす。気が水分を吸っているのか所々色がまばらだった。窓の外の世界は幾らでも拝むことができる。ただ己の足で踏みしめることができるのは限られた範囲だけというのは皮肉だった。
「間夫でもいるのかィ」
神楽が長いこと窓の外を見つめていることを不思議に思ったのか、沖田が尋ねた。神楽は沖田が言い放った言葉をゆっくりと頭の中で繰り返し、そして酸素が足りていない脳で漸くその意味を理解する。それと同時に彼の喉を己の爪で切り裂いてしまいたい衝動に駆られた。
「間夫なんて…わっちには旦那がいるではないでありんすか」
「嬉しいこと言ってくれるねェ」
「当たり前アル。遊女なめんな」
私の間夫はお前だ。しかしそれを冗談としか受け取らない男の鈍さに、窓の向こうの景色を見つめたまま神楽は笑った。この男の残酷な性格は骨の髄から染みついているに違いない。そんな想いを素直に打ち明けることができるわけもなく、僅かな頬笑みを引っ込めないまま口元だけを持ちあげて窓の外を見つめることしかできなかった。
夜明け前の花街は不気味な程静まり返っているが、それでも遊郭から家や職場へと向かう男達が何人か歩いている。隠れるように歩くわけでもない彼等は何処か堂々としている者もいた。
そういえば、この男もいつも夜が明ける前に帰っていた。寝不足にはならないのか、といつか尋ねたら「職場で十分仮眠をとっている」と返された。そのせいで気に食わない上司に気に食わない説教をされるらしい。
沖田は自分と同じ様に珍しい髪色の持ち主で、甘い物を彷彿させる蜂蜜色の彼の髪の毛に食い付いてふざけたりもした。それでいて彼の瞳と自分の瞳が重なると、「囚われた」という感情が沸き起こり、嬉々として彼に抱かれた。
しかしいつまでも怖いほどの快感に身を任せるわけにもいかない。いつか奈落の底に落とされると分かっているなら、せめて自分から断ち切らせて欲しい。もしかしたら地上へと這い上がれるのではないかという淡い希望を抱かせるような紐を自分にちらつかせる沖田との関係を断たなければ、自分には破滅という道しか残されない。
そもそも遊女という身分を選んだ時点で、己を痛めつける将来を自ら選んだのも同然なのかもしれない。そんな覚悟ができているのに、未だ傷つきたくないという甘えの気持ちを捨てきれないでいる自分に驚きたくなる。吸い終わった煙管を窓枠の窪みに落とすと、神楽は静かに立ち上がった。
ちょうど月が地平線の下へと潜り込もうとしているところで、尽きかけた月明かりが自分の繊維のような肌を漂白しようとしているようにもみえた。いっそのこと、このまま世界の全ての色を無にしてしまえ。ふと視界の端に映った外の世界に頬笑みが零れる。
緻密な肌理の月
遊女と一番隊隊長。