白い床の上、すれ違いと同時に鼻を擽る香に、思わず眉を顰める。残り香の跡を辿る様に視線を流していけば、辿り着いた先には「華奢」という言葉が似合いすぎる女がいた。
女の唇や睫毛、頬に塗りたくられたものが発する光を捉え、神楽は深い溜息を吐いた。一体、彼女は日の出よりどれくらい前から瞼を開けなくてはいけないのか。もっとも、睫毛に黒い液体を(微量だが)重ね塗りし、唇を薄桃色に染めている自分も彼女と同類ではあるが。
「どんだけ気合入ってるアルか。」
ざらざら、と表面の加工された緑色のテキストの感触が指先から伝わることはなく、代わりに感じられたのは白い床と白い天井の間の自分がいる空間だった。自分の立つ部分だけ切り取られた空間の向こうには「華奢女」や「清楚女」がうようよ泳いでいる。そのことに堪らなく嫌悪感を募らせた。
「よォ。」
取り残された空間に留まっていた神楽は、突然現れた侵入者にびくりと肩を震わせる。目の前に突きつけられた柔らかい色使い、蜂蜜色、に戸惑って抱えていたテキストを一気に下へと溢せば不満そうな声がさらに続いた。
「嫌がらせか、コノヤロー。」
丁度、男の足に全ての緑色達が乗っかっていた。神楽が黙ってそれらを拾い上げ扇のように広げながら確認してやると、受講順に並べた教科書達は列を乱していた。
「ごめん」の一言は喉辺りで引っ掛かっている状態を保つ気らしく、神楽は謝罪の言葉を口にすることができないままでいた。
「謝りもしねェのか。」
先程から黙ったままである神楽をさすがに不気味だと感じたのか、怪訝そうな表情を浮かべた沖田は自分と神楽との距離を縮めた。顔を覗き込んでやれば、やんわりと神楽に顔を押し返される。
「緊張してるのヨ。」
「へっ。」
「知らない人ばっかりで、皆大人っぽいし。唯一知ってるオマエは知らない奴等とつるんでるし。女に囲まれてるし。」
後悔という言葉を噛み締めるには遅すぎた。呆けた顔を一瞬見せたくせに、沖田は腹を抱えそうな勢いで笑い始める。奴の目尻にはうっすらと水滴まで見え隠れしていて、神楽は裏拳でも一発お見舞いしてやろうか真剣に悩んだ。
沖田の笑いが消えるのを見届けることなく神楽がその場から姿を消そうとすると腕に食い込む五本の指。
「お前が緊張?ありえねェ。まじでか?」
「死ネ、ドS野郎。笑いたきゃ勝手に一生笑ってればいいアル。むしろ笑い死に希望。」
「嘘、ちょー可愛い神楽ちゃん。かまって欲しかったんだ?」
「ミジンコもそんなこと思ってないアル。」
「『微塵』な。仮にも受験生だから。」
腕を振り子のように宙で2、3回往復させるとあっさりと解放された。履き慣れないパンプスの踵を床に落とし、突き放すような清清しい音を立てて歩き出す。
上も下も白に塗れている四角い箱から飛び出して今度こそ仰ぎたいのは、数日前まで当たり前だった、屋上の天辺に広がる青もしくは蒼。
やがて居なくなる空の色
3Z神楽と沖田、塾の冬期講習。