日毎に街が闇の中へと浸る時間が長くなっている。そういうわけなので、夕方までに仕事を終わらせた男が帰宅する頃には辺り一面が紺色だった。
肌を刺していく風を忌ま忌ましく思いながら、マフラーを巻き直してビルが建ち並ぶ区画へと足を進める。
「あっ。」
帰宅した男は玄関に置かれた女物のブーツを確認するなり声を上げた。途端に胸の中を支配するものがあった。
カシミアのマフラーとコートを脱ぎ、靴を玄関に放り出したまま部屋に上がってきた男を見て女は一喝する。渋々といったふうに男は靴を揃え直した。
「もう帰んの。」
白のロングカーデを着て髪を整えている神楽を目の前にし沖田は尋ねた。ラクーンの茶色のファーが暖かそうに見える。
「そうヨ。御飯作り終わったし。炒飯とスープだけど。」
「急がないなら俺がシャワー浴び終わるまで待っててくんない。」
相手の返事も確かめずに脱いだコートとマフラーを無理矢理持たせて沖田は自室へと向かった。自分の後ろでどんな膨れっ面を神楽がしているのも気になったが、とりあえず振り向くことはしなかった。
「ねェ。」
「何。」
「どういう流れでこうなったアルか。」
「成り行き。」
ソファーに腰掛ける自分の太腿に頭を乗せて寝そべる男を見下ろした神楽は盛大な溜息を吐いてみせた。
沖田がシャワーを浴びている間、溜まった疲れによって齎された睡魔が自分を襲い、暫くして膝に重さを感じ目を開けてみれば、この始末。ワンピースの裾が上がってきやしないかと内心ひやひやする。
「仕事行きたいんだけど。20時からアシスタントなんだヨ。」
「漫画家のだっけ。」
「そっ。ゴムかけと雑用。だからいい加減起きろヨ。」
沖田が帰ってきた時に出発寸前だったため準備は万端だった。ただし、この状態をいつまでも許すわけにはいかない。時間が迫っているし、第一、自分はこの男に膝枕をしてあげるような関係では決してない。膝が痺れるから不快感を覚える以前の問題である。
週7日間、沖田のご飯作りを含めて4つのバイトを掛け持ちしている神楽にとって分刻みで時間は厳守しなければならなかった。そのことを沖田も知っているはずなのに、協力姿勢を一向にみせれはくれない。むしろ最近は何かと神楽を煩わせる行動ばかりする。
そして我慢しきれなくなった神楽が突然立ち上がったため、沖田の頭は自然と重力の法則に従がって床を目指した。寸前のところで腹筋を使った沖田は上体を起し、フローリングとの衝突事故は避けられたようだった。
「あっぶねェ。信じらんね−。モデルの顔を何だと思ってんだよ。」
「自業自得アル。だいたい今のは負傷するとしても頭ダロ。顔は関係ないネ。」
「そういう問題じゃねェし。」
ぶつぶつと文句を言いながら頭を両手で労わる仕草をみせる沖田を完全に無視し、床に置いてあったハンドバックを持つと神楽は早歩きで玄関へと向かった。慌ててその後を沖田が追いかける。上手く履けなかったスリッパが蹴られて床を滑っていった。
「せっかく夕方上がりだったのに。暫くオフないんだぜィ。」
「人気モデルは大変アルな。お疲れ様。」
「全っ然心こもってないんですけど。棒読みじゃん。」
「ってことは私暫く此処に来なくていいアルか?」
若干傷付いたような(あくまでもフリだったが)沖田の発言を清清しいままスルーした神楽は思いついたように尋ねた。玄関の扉は半開きで、今にも出て行きそうな神楽に向かって沖田はニヤリと不敵な笑みを浮かべながら言う。
「もしかして寂しいとか?」
「人の質問に答えましょう。」
「…次は2週間後でいいでさァ。明後日から海外ロケだから。」
「まじでか。キャッ…じゃなかった、頑張れヨ!」
明らかに「キャッホウ」という嬉々とした声を発しそうになった神楽の、意味のない誤魔化しに対して沖田が抗議する前に玄関の扉は静かに閉められていく。
がちゃりと音を立てて完全に閉じられた黒いドアの金色の取っ手を見つめた後、沖田は深い溜息を吐いた。
***
スタジオへ向かう途中に馴染みの食堂があった。細々とした道を通り抜け、アーケードを潜り、昔ながらの商店街の中でその店は意外にも繁盛している。
「隠れ家のよう」と芸能人の間では評判の店らしく、テレビや雑誌で見かける顔が普通に焼きソバやお好み焼きを注文していたりする。
留学資金を稼ぐという理由で半ば遊び感覚で始めたモデル業が信じられない程順調な成功を次々と収めてしまい、あっという間に有名人、芸能人の仲間入りを果たした。
そして高校生の頃から通っていた店がよく使う撮影スタジオの近くにあったことを思い出し、懐かしさもあって仕事のある時はいつも昼・夜共にお世話になることが多かった。
そんな芸能人として店に通うこと1年が過ぎた頃、それまで店長の男一人が切り盛りしていた店に新人のバイト二人程入った。それは眼鏡男と眼鏡女という何とも絶妙なコンビだった。
銀か白か判断し難い髪を持つ店長の怪しさも半端なかったが、特に眼鏡女の度数程奇妙なものはなかった。
「それ度数いくつなんですかィ。」
とうとう尋ねた自分に、ラーメンを運んできた眼鏡女は口元を不愉快そうに曲げた。ぐるぐる眼鏡は白く曇っており表情は読み取れなかった。
「曇ってるし、外せばいいのに。」
「余計なお世話アル。」
返ってきたのは意外にも可愛らしい声だったが、それと同時に言葉は容赦ない一刀両断するものだった。
今まで接してきた女は、皆自分の顔を見るなり頬を染めるか顔を伏せるかのどちらかだったのだが、そういえばこの女はそんなことは一度もなかったことを思い出した。もしかして眼鏡の度数が合ってないとか。そんなことを考えたら、自然と手が動いた。
口元を曲げたままの彼女の顔へ手を伸ばし、桃色のフレームの眼鏡を外す。手にとてつもない重さを感じつつ、目が離せなかった。
「一目惚れ」なんて一生縁のない経験だと思っていた大学三年生の春のことだった。
***
「しつこいアル。何ヨ。」
10回目の着信音でやっと出た神楽の声は不機嫌さが滲み出ていた。ふとリビングの壁に掛けられた硝子時計を見上げれば、長針と短針共に11の所で止まっていた。彼女がご立腹になるのも十分に頷ける。
「なァ、明日もバイトあるの。」
「当たり前ダロ。ファミレスで朝番。昼からは銀ちゃんのトコ。」
「夜は。」
「夜は…、」
そこで言葉に詰まる彼女に、ある事を確信した沖田は携帯を右手から左手に持ち替えてさらに尋ねる。気分が明るくなってきたと同時に自分の本来の性格が発揮される場面であることを自覚した。
「何もねェんだろ。」
「…あるヨ。」
「何。」
「…銀ちゃんのトコ。」
「嘘付け。」
「…だったら何アルか。」
「明日の晩、俺の家に来て。」
諦めの混じった声で言葉を発した神楽とは対照的に沖田は上機嫌で言う。
だが、あっけなく即答された。
「嫌アル。」
「へェ…、せっかく時給奮発してやろうと思ったのにねェ。」
神楽の拒否の早さに硝子の剣である沖田の精神は少なからずダメージを受けつつも、沖田は明らかに何か企んでいる、しかし残念そうな声で言った。暫くの沈黙が受話器の向こうで続いた。
「…いくらアルか。」
「ご飯作ってくれて、ちょっと掃除してくれたら5000円。」
「行く。」
「じゃあ決まりな。7時くらいに来いよ。」
扱いやすい、というか単純な女で良かったと思いつつ沖田は鼻歌まじりで携帯を折りたたみリビングのテーブルへと置いた。
いくら口説いても落ちる気配を一向にみせない神楽は、きっと明日も相変わらずだろうと思いつつ一方で期待してしまう気持ちを抑えることもできない。自分でも馬鹿な男だと嘲りたくなることもある。けれど惚れた方の負け。そう開き直った自分に課されることは唯一つ。
愉快若しくは憂鬱
(であろう遊戯を君と)
<あとがき>
美紅様から芸能パロとのリクエストだったんですが…。沖→→神が大好物の管理人の好きなように捏造されまくってます。その上お待たせしてしまい大変申し訳ありません。
素敵なリクエスト有難うございました。