長時間座り続けたため、立ち上がった瞬間に小さな音が足と腰から響いた。椅子の固い木の部分と自分の尻が長い時間押し付けられていたことを不憫に思う。



光る液晶画面を閉じ、先程までキーを打ち続けていた指の腹にも痛みを感じ思わず顔を顰める。育児休暇中のはずなのに、その上街中が新年を迎えるための準備をしている日なのに、どうしてこんなことをしているのかと自分自身に呆れた。


周りからすれば「もっと身体を大事にしろ」なんてことを言われるに違いないが、これでも気を遣って毎日を過ごしている。そんな風に生きたことなんてなかったから、これが意外に疲れたりするのだ。


数ヶ月前と比べ物にならない程に膨らんだ腹を痺れた指を使って優しく撫でていると、自然と顔が緩んでしまう。幸せ。ただ本当に、純粋にそう思う。



「そろそろ散歩に行こうか。」


応答がないことくらい分かっていて、それでも言葉を掛けざるにはいられない。何時の間にか、それが習慣となっていて独り言の回数がとても増えた。玄関の横に立っているコート掛けからお気に入りの白のロングコートを取って羽織る。ヒール無しのバレエシューズを履けば、後はドアを開けるだけだった。















***



「何ヶ月なんですか。」


優しい色をした木のベンチに座ると、先客だった女性に声を掛けられた。上品に染められているであろう茶色の髪が柔らかそうだった。脳裏に、一瞬だけある人物の姿が浮かんだ。


「8ヶ月なんです。」

「あら、じゃあもうすぐですね。」


その瞬間、ひどく満ち足りた気分になったのを神楽は感じた。自分の身体には新しい生命が宿っていて、それをこれから自分は守るために生きていく。いっそのこと、いつまでも自分の身体の中に閉じ込めておきたい。




冬の暖かい日差しが雲に遮られた公園に冷気が侵入し始めた。マフラーを忘れてしまったことに軽く舌打ちをしそうになったが、隣の女性がいる手前それはできない。


吐く息は白く、首筋を容赦なく空気が撫でる。「では。」と互いに軽い会釈を済ませ、公園の出口へと歩いて向かった。


あの女性も一人で大晦日を過ごすのだろうか、それとも彼女の帰りを待ち侘びていた家族の笑顔に迎えられ、新年を希望に満ちた心で待ち望むのか。けれど、そんなことを考えている間も空気と接触する肌の面積は変わることなく身体が段々と冷えていくのがわかった。











***



木屑を踏みしめながら、忌々しい雲を仰ぐ。こうなったら、身体を冷やしてしまわぬ内に家へと帰る必要があった。白い息を手に吐きかけても何の効果もない、と頭では理解していても体は本能的に動いてしまう。



ついに体を突き抜けるような風が辺りを吹きぬけ、堪えきれない、と思った時だった。









「身体冷やしてどうすんだよ、馬鹿チャイナ。」




差し出された濃紺のマフラーだけを見つめていた。顔を上げなくとも、目の前で起こっている事実は否定することができない。悴んだ指先をぎゅっと掌に食い込ませて、絞るような声で言うのがやっとだった。


「人違いじゃないですか。」

「はっ?」

「じゃあ、そういうことで。」

「ちょっと待てよ。」


これ以上寒い空気に全身を撫でられるのも嫌だったが、何より目の前に立っている男と言葉を交わすことが苦痛に感じられた。

見覚えのあるマフラーも受け取らず、体の向きを半回転させて少し遠回りになるが別方向から家へと帰ることにした。


歩きやすい靴のはずなのに、上手く歩けない。早足にしようと思っても転んでしまいそうで怖かった。運動神経は昔から良かったはずで、学生時代だったら後ろから追いかけてくる男と互角に勝負できる程であったはずなのに。


離れていられた時間は僅か数秒足らず、沖田は神楽の前に立ち塞がるように回り込んだ。



「無視とはいい度胸じゃねぇか。」

「無視じゃないアル。知らない人には付いて行かない、これ小学生も知ってる常識ネ。」

「ふーん。俺のこと知らないんだ?」

「知らないアル。いいからさっさとどけヨ。」


神楽は余り強くない力で沖田を押しのけると、今度は自分のペースで歩き始めた。転倒して御腹でも地面に打ち付けてしまうことを恐れた。自分の顔に傷ができようと、足を捻ろうと、そんなことならいくらでも怪我できる。けれど、このお腹だけは別だ。絶対に傷付けたりなんかできない。


「そのお腹、俺の子?」

「違うアル。断じてオマエの子じゃないアル。」

「じゃあ誰の子何でィ。」

「私の子。」


道行く人に注目されるので歩き続けながら会話をすることは何とかして避けたかったのだが、沖田は中断する気が全くなさそうだった。


「だいたい女癖が最高に悪くて、サディストで、顔しか取り柄ないような男が父親なワケないダロ。」

「へェ、随分と俺の事ご存知のようで。」

「……。」


言ってしまったことを後悔しても無駄な労力である。大きな銀杏の寂しい姿が目に入り、後数十メートルで我が家に着くということが分かったので無視を続行して乗り切ろうとした。


ポケットから小さな鈴と兎のキーホルダーに繋がっている家の鍵を取り出すと、出来るだけ素早く鍵穴に差し込んで扉を開けた。すぐ後ろに男がいることは分かっていたので中に入るなり、思いっきりドアを閉めようとしたら沖田の足がそれをさせまいとしてきた。


「警察呼ぶアル。不法侵入で。」

「その腹の子の父親なのに?」

「今のオマエは単なる変質者ネ。」


ドア一枚越しに必死の攻防戦を繰り広げる。閉めようとする自分の力よりも明らかに開けようとする相手の力の方が勝っていて、それが悔しいやら、入れちゃいけないと焦るやらで掌には今にも嫌な汗が滲み出てきそうだ。


「とりあえず話しよう。な。」

「『な』じゃないネ。話すことなんか何一つないアル。」

「あるだろーが。」


ついに手が滑った。ドアの塗料に手汗は最適の油的役割を果たした。すかさず侵入を試みる男とせめてもの距離を保とうとする。


「近付かないでヨ。もう関わりたくないって言ったアル。あの日でお前とはっ、


その先の言葉が続けられなかったのは首と肩に男の腕が巻きつけられたためだった。御腹を労わるようにして、それでも昔と変わらない痛いくらいの抱擁をしてくる。


このまま窒息死してしまうのではないかと本気で疑い始めたら漸く強い圧迫から解放された。息切れをしながら目の前に立つ男を睨みつけるが、男は既に神楽の視界から消えていた。



「俺の子だよな…?」



視線を下げると、其処にはしっかりと膨らんだ自分の御腹に優しく掌と耳を当てる男がいた。旋毛の見える男の頭を思いっきり殴ってやりたいのに、それができない。



「うん。そうヨ…。」



鼻詰まりのような声でそう答えるのが精一杯だった。俯きながら答えたものだから、神楽から零れ落ちた水滴が沖田の旋毛へと流れていく。頭に感じる冷たい温度を感じた沖田は、そのまま立ち上がって己の腕を再び神楽の首と肩に巻きつけた。


随分前に突き放したはずの男の体温が懐かくて、余計に水が流れ落ちる。この日を一人で過ごさせないようにしてくれた二人の愛に溺れてしまいたいと神楽は思った。











(愛はこんなにも胎内で溢れてる)









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