窓を開け、外の寒さを直に確認する。宙に伸ばした腕に纏わりつく空気の冷たさに肌が凍った。


外と内の温度差に溜息を吐きながら、クローゼットを開け最短時間で着替えを済ます。


セーラー服は温度調節に不便だ、とよく言うけれど正直あまり不便だと思ったことはない。現に肌寒い季節になった今、黒のPコートを羽織れば何の問題もなかった。


玄関で革靴を履き、つま先をタイルに打ちつけてドアを押す。心臓に悪い程の冷気が一気に家の中へと侵入してくるも、どうせ家に残っているのはバカ兄貴と父親だ。風邪を引かせてしまうかもしれないという心配もない。


コートからはみ出すスカートの面積が少なすぎると父親には文句を言われたが、従うわけもなく神楽は「行ってきます」と冷たく言い放って家を出ようとする。


一刻も早く家から出発しなければ、単位を落とすかもしれない遅刻回数に到達してしまうというのに父親が神楽を引き止める。

あからさまに嫌悪感を募らせた表情を浮かべながら、神楽は父親の話に耳を傾けた。




「神楽ちゃん、今日お隣の子預かることになってるからお迎えよろしくね。」

「………また?あの子、兄貴とごっさ仲悪いから私が大変アル。」

「あとお父さん今日も帰り遅いから戸締り「行ってきます。」


割と遅めの反抗期を迎えたばかりの神楽は、父親の言葉を最後まで聞かずにドアを閉めて外と内の世界を断ち切った。「昔みたいにパピーって言ってよ。」なんていう言葉も聞き飽きていた。















***




「あら神楽ちゃん、久しぶりじゃない。」


桃色地にお花模様の可愛らしいエプロンを着た女性が、明るい声と笑顔で神楽に話しかける。

彼女の手と小さな別の手が繋がれており、その手の主を見れば自分が迎えに来た目当ての人物だった。


「大きくなったわねぇ、何年生だったかしら?」

「高一です。」


何年も昔には毎日のように見ていた笑顔は、相変わらず太陽のようで歳の経過を感じさせない。この笑顔を見ると、胸の何処かがほっこりと温まるような気がするのは今の同じだ。


「総悟君。良かったわね。お姉ちゃんがお迎えに来てくれたわよ。」


幼稚園児にしては無愛想な子供は繋いでいた手を離すと、ゆっくりと砂利を蹴りながら神楽に近付く。

すっかり闇に包まれた広場に、建物の明りが零れていた。



「じゃあ行くアル。」

一言だけ告げて黙ったままの子供に帰りを促す。

建物の方から「そうごく−ん、またあした−。」と鈴のような女の子の声がいくつも聞こえてきた。先程までの無愛想な表情から一変して、少しだけ微笑を浮かべながら手を振り返す子供を見下ろしながら、何となく神楽は不愉快な気持ちになった。
















***

つい昔の癖で、手を繋いで帰ろうとしたら勢いよく拒絶された。別にどうしても繋ぎたかったわけではなく、ただの癖。それなのに、思いっきり手を振り切られたものだから神楽の気分は良くなかった。


「ごめんアル。つい癖で。」

「べつに。」



太陽が地平線に沈みきった後、反対の方角から上り始めているのは満月。黄色のような金色のような曖昧な色彩の円は、ぽっかりと黒い画用紙に穴を開けて鎮座していた。


満月を見つめながら、神楽が呟く。


「久しぶりネ、二人で帰るの。」

「おまえがむかえに来なかったからだろィ。」

「だっていつもはミツバ姉さんがいるダロ。」

「そうだけど。」


この子供の歳の離れた姉は、驚く程美しく清楚な女性で神楽の憧れの人でもあった。けれど体が弱かった彼女は常に病院に通っており、そういう時には隣人である神楽の家族の誰かに弟の世話を頼んでいた。

何故か総悟は神楽の兄貴である神威と犬猿の仲で、父親は帰りが遅かったり出張だったりすることが多いため、消去法で神楽がいつも総悟の世話をしていた。


ここ最近はミツバの体調が優れており、神楽家族の出番もなかったのだが今日の朝になって父親が頼まれたらしい。




辺りを吹き抜けた冬の風が耳たぶを撫でた。

そういえば、枯れ葉とか木枯らしとか吐いたら白くなる息とか街はすっかり冬の気配に満ちていることに気が付く。

夜の闇が柔らかく少女と少年の上に下りて二人を包み込んでいた。



神楽のコートのポケットの底で携帯電話が震えた。冷たくなった手で携帯を取り出し、液晶画面を見ると表示されていたのは密かに憧れている担任からの電話だった。



「もしもし、銀ちゃん?」

声のトーンが自然と高くなってしまうのは無理はない、と開き直ることにする。

歩きながら会話を続けるが、電波は悪くなった。



「おー、神楽?テメェ俺の牛乳プリン食っただろ。職員室の冷蔵庫にあったヤツ。」

「うん。だってそこにあったから。」

「哲学者みたいなこと言うなコノヤロー。弁償しろ。明日買って持ってこいや。」

「えー嫌アル。私だって家計厳しいアル。ごっさ貧乏ネ。」

「こっちも家計厳しいんだよ。買って来なかったら、明日居残り罰掃除な。」


その後、電子音が断続的に続いた。

一方的に告げられた要件とその内容のくだらなさに神楽は深く溜息を吐く。所詮、彼と自分の関係なんてこんなもんだ。闇の中で吐かれた息は白く変わって宙に消えていった。


自分の隣に歩いている子供の存在をすっかり忘れていた神楽は、急に隣から発せられた言葉に動揺してしまった。心臓が跳ねる、という表現がぴったりと当てはまると思った。


「今のあいて、チャイナの好きなやつ?」


相変わらず年上の自分に対して生意気な口調を改めようとしないことに不満はあったものの、今はどうでも良い。思わず彼の顔を見ようとするが、闇の黒に塗れてしまっていたため不可能なことだった。


「な…なんで?」

先程とは別の意味で、声のトーンが不自然に高くなってしまう。

「うれしそうだったから。」


幼稚園児のくせに鋭いすぎる。コイツ本当に幼稚園児なんだろうか。何処かの漫画の主人公みたいに実は中身は高校生で外見は幼稚園児とか。くだらない考えごとを続けていたせいで、気が付けば満月は南に近付いていて、闇にどっぷりと浸かる道は家から数十メートルの所だった。


「で、そうなの?」

「まァ好きじゃないけど、憧れてはいるアル。」


誰にも話したことのない乙女の悩みを、何故コイツに話しているんだろうという単純な疑問が頭の片隅に浮かぶ。歳も性別も全く違う小さな男の子に、自分の気持ちを理解して貰おうなんて思っていないが。しかしそれさえも吹き飛ぶような出来事が次の瞬間に神楽を襲った。







神楽の手と繋がることを拒否した総悟の手が、今度は逆に強く彼女の手を引っ張った。

コンクリートの割れ目部分に革靴が引っ掛かったのも災いして神楽は、総悟の体へと倒れこむ。自分と比べて小さいはずの彼の体は、神楽の思っていたよりも逞しかった。

ぎゅっと目を瞑ったままでいると、唇に合わさる別の体温。


キスされている、と判明するのに数秒かかり、さらにその状態が数十秒続いた。

漸く二人の体が離れ神楽が身を起こした時には、触れるだけの口付けに互いに息が上がっていた。


「なっ…。」

絶句した状態で自分を見下ろす神楽に、総悟は幼さを感じさせない不敵な笑みを浮かべる。尤も、暗闇で彼女は見えていないだろうことを計算済みで。


「    」




何かを呟いたらしい総悟の言葉を聞き取ることができなかった神楽は思わず聞き返すも、それっきり家に着くまで彼は一言も喋ることはなかった。



照れ臭さと不貞腐れたい気持ちを隠すために神楽が仰いだ夜空には、円周率が3.14なのかは分からない満月が浮かんでいた。
























<あとがき>

碧翠様への相互記念小説…なのですが、一体私は何回タイタニック事件を起こせば気が済むんでしょうか。もう軽く数十回は沈没しております。
リクに添えていない上に駄文で申し訳ありません。
炙るなり漬物石を乗せて蓋をしてしまうなり、碧翠様のみご自由にどうぞ!
改めて相互有難うございました!

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