これ以上、一緒に居たら何かが変わる。音も立てず静かに忍び寄るように。そして確実に。




キッチンの棚の一番手前に置いてあるお気に入りの硝子のコップ。女の子らしいハートの模様が注ぎ込んだ液体を飾ってくれる。それを下に落としたら細かく砕け散るように、同じ原理で私達の関係も崩れ落ちる。



だから、決心をした。







私の決心を告げられた時の彼の顔は、ひどく無表情だった。
















目の前の女が、大きな蒼い瞳で自分を睨みつけてくる。
 

珍しく、寮とは反対方面行きの電車に神楽は乗っていた。まだ昼の1時という中途半端な時間帯なだけあり、電車の中は人がまばらに座っている程度で、いつもの通り人工的な寒さ。

黒のジャケット(ウエストにサテン地のリボン付き)を着込んではいたが、それでも全身の肌の表面が除々に冷えていくのが感じられた。


紫色が少し色褪せた座席のシートには座ろうとせず、車両の端に位置するドアのガラスに輪郭がぼんやりと二重に映った自分自身の姿を黙って見つめ返す。


鏡で見るより、白スカートから伸びる足が細く見えた。

蒼い瞳も一回り大きく見える。





このガラスに映る自分は中々いいかもしれないと神楽は思った。しかし電車が地下に潜り込んだため、ガラスに映る自分の姿の輪郭は先程よりもはっきりとしたものになる。


淡い自信も短い命。


鼻でため息のようなものをついてみた後、電子辞書やノートといった類の勉強道具がつ入った重いケースを床にわざわざ置いた。

普段ならどんなに重くても他の客の邪魔にならないように鞄は常に肩にかけっぱなしでケースも手に持つのだが、今日は、さすがに邪魔になりようがない客数しか車内にはいない。


何より、自分は緊張しているのだ。


それが嫌と言う程分かる。

それも、また嫌だったのだが。




















***

喫茶店の禁煙スペースにある自分達のテーブルに、注文したアイスティーとキャラメルラテが運ばれてきた。どちらにも、ミルクとガムシロップがついてきた。
 

少し破れかかった赤いクッションが置かれている椅子に座りながら、女と男は向かい合っている。


厨房の方から時折聞こえてくる食器がぶつかり合う音と微かなジャズのような音楽が、二人の間にあるぎこちない空間を流れていた。


自分が緊張しているのか、あるいは何か別の感情を抱いているのか総悟は全く分からなかった。


いつもは滅多に掻くことのない汗が、額の髪の生え際に滲みでてきている。その上、汗はとても冷たい感じがした。



総悟は自分の目の前に座る少女、もはや女性と形容した方が正しいのかもしれない、をちらりと盗み見る。


ストローを銜えている上唇の薄さや、キャラメルラテが入ったガラスのコップを掴んでいる手の白さ、あまりにも細い指に驚いた。伏せられた睫毛、耳たぶの厚さや肌のキメ細かさまで見ようとする自分に気がつき、はっとする。



その小振りな唇に自分の同じモノを重ね合わせたこともや、雪を彷彿させる滑らかな肌に口づけたことは今まで何回もあったというのに、彼女を近くに感じることができなかった。






「久しぶり、だな。」

「そうネ。って言っても1ヶ月ぶりアル。」

「前は毎日顔合わせてただろィ。」

「まぁ一緒に住んでたんだから当たり前ネ。」



ぎこちなく切り出してみたものの、案外いつものペースを再現することに成功したと思った。

やはり言葉を交わしてみると、久しぶりの再会であることを実感させられる。



愛しい義妹が大学に進学するにあたって寮を選び、家から出て行ったことは、それこそ背筋が打ち抜かれるような衝撃だったが、最近になって漸く事実を受け入れ慣れて来たところだ。



大学の授業にも寮生活にも慣れ、余裕が出てきたと電話越しで彼女から話を聞いた瞬間、自分の口から飛び出したのは「久しぶりに会いたい」という言葉。


ここまでストレートに言ってしまう自分にも呆れたが、その時は少なくとも必死だった。




毎日当たり前のように顔を合わせ、それなりのスキンシップもしていた愛しすぎる義妹と離れて生活するということは、想像していたよりも相当キツかった。


週に数回のメールだけでは不十分だったが、大学生になったばかりの義妹に負担をかけまいと我慢する日々。


こうして顔を見ることができて、本当に幸せだと実感した。


私服は高校生の時よりも一段とレベルアップしていたし、化粧も手馴れてきたようで顔に良く馴染んで映えている。



一気に大人への階段を上り始めた目の前の義妹を、自分は許容量限界にまで愛しているということが改めて感じる。




他愛のない話を一時間は繰り返し、互いに笑い合い、幸せな一時を過ごした。





気がつけば、店の窓ガラスの外には橙色の色彩が広がっていて時間の経過を素直に表している。






「そろそろ出るアルか?」

「ああ。」



秘められた気持ちとは裏腹に、口から出る肯定の言葉。

溜息を吐きたくなる程、どうしようもないことに苛立ちが募るばかり。




会計を済ませ、鈴の付いた重い木製のドアをギギギと音を立てながら開く。


そうしている間にも、彼女ともう少し一緒にいるにはどうすれば良いのか、必死に頭がフル回転していた。


閉められたドアに遅れながら鈴の凛とした音色をしっかりと耳に入れる。







喫茶店の窓ガラスは現実の世界の様子を正確に映してくれていたようで、空を仰げば一面にオレンジ色に染まった雲が漂っていた。




暫くその光景を二人で黙って眺めた後、神楽がエナメルバッグを肩に掛け直して言った。






「駅まで一緒に行くネ。方面は逆だけど、ホームは同じアル。」


「神楽っ。」


彼女の言葉を遮るようにして、総悟は低い、擦れた声で微かに叫ぶ。



「もう少し一緒にいたいんだけど。」



そう言って、無理矢理だらんと下げられていた神楽の腕を掴み、自分の手を移動させて神楽の指と自分の指を絡ませる。


きょとんとした神楽は、一瞬ひどく悲しそうな表情を総悟には絶対見えないように俯いた隙に作った。


再び顔を上げ、総悟にはとびっきりの甘い笑顔を見せる。



「うんっ。」

















もう後戻りできない。




先に進ませるしかない感情を二人は互いに抱いたまま、いつまで過ごせば良いのだろう。






さようなら、夏娘



(愛しすぎる人、

どうして貴方じゃなければいけなかったのか)









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