せめて入学式まで枝に残っていればよかったのに。

役立たずな桜の花は、もう地面に這っている。





花びらの散る中、灰色のコンクリート製の校舎を見上げた。中等部の校舎よりも高等部の方が造りも大きさも建物面積も勝っているのは当たり前、とエントランスへ向かう。


学校の自慢らしい、私には全く理解できないが、芸術的なオブジェが堂々と天井からぶら下がっていた。


地震が起きたら一発だナ。なんてことを考えながら、軽く鼻で笑うと、先程から隣にいた友人2名が尋ねてきた。



「どうしたの?」


「別に何でもないアル。」


私達は今日からメデタイことに高校生。

花の高校生なんて言われるけれど、中学からエスカレーター式なためか、あまり実感はない。感動という感情もない。大好きな友人達も変わらない。もちろん、餓鬼っぽいムサイ男子達も一緒だ。



違うものと言えば、校舎と先生くらい。





「ねーねー。高等部にね、すっごいカッコイイ先生がいるんだって。」

「知ってる!私、実は楽しみにしてたんだぁ。」


ミーハーな友達は早速、高校生らしい会話に花を咲かせる。

神楽は、今日の酢昆布が果たして足りるか、などということを考えていた。

足りなさそうだったらスーパーに帰り道の途中で行こうと決めた時、友人2人が歓声のような叫び声に近いような声を発した。


三人の少女の横をスローモーションで通り過ぎる男。

空中に僅かに舞う蜂蜜色の髪が、窓硝子から入射してくる朝日に照らされていた。

  
さらに少し遅れて、白衣の裾が下の宙で舞う。




「今の人!!」

「それが?何アルか?」

「『沖田先生』だよ!さっき言ってた。」

「ふーん。」

「彼女になりたい…。」

確か自分の記憶が正しければ、この友人には彼氏がいるはず。
「彼氏できたぁ。」と嬉しそうに夜中電話してきたのが記憶に新しい。

どこまでもミーハーだな、と呆れつつも憎めない友人に思わず苦笑いしてしまう。

そして口から飛び出た一言。


「先生なんて完全に恋愛対象外アル。」




少し大きめな声で神楽が言った最後の言葉を、彼女達とすれ違ったばかりの男が不敵な笑みを浮かべながら聞いていた。










****

月日は流れた。
空を見上げれば勢い良く移動している雲がある。ちょうど、そんな感じで。


あの桜の木は、見ている側が惨めになるくらい貧相な色彩となっていた。


どうせなら紅葉のように美しく着飾れば良いものを。







来年の選択科目についての長かったHRも終わり、窓の外に広がる壮大な夕焼けをこれから迎えようとしている空を眺める。

太陽は西に傾いていた。


放課後は特に予定もなかったため、早くこの面倒臭い週番日誌を書き終わらせて帰ろうと心に決める。


いつも駅まで帰りを共にする友人達は、部活や委員会があるらしい。


日誌の一番下にある『一日の感想』の欄と間違えて、『先生のコメント』に書き込んでしまったことに気が付いて舌打ちをしたと同時に、教室内に体育会系の男の声が響き渡る。




「神楽ぁ―!お前、暇な人だったりする?」

声の主を確認すべく、教室の入り口へと視線を向ける。

バスケ部部長で生徒会役員も務める学校の人気者。神楽のクラスメートであり、それなりに仲も良かった。

柔らかそうな茶髪を、印象良くワックスでセットしており顔も整っている。

女子からモテるという話を聞いたことがあった。




「暇だけど…?」

「カラオケ行かねェ?他の野郎も2人いるんだけど。全部奢るからさ。」


そう言いながら、彼は自分の後ろを親指で示す。

二人とも見かける顔だが、知り合いではない。

普通の女子なら、ここで躊躇うのだろうが神楽の思考回路は違う。





思いがけない幸運。

最近、甘い話には気をつけろなどと耳にするが、大丈夫。確かにコイツ等の一人称は『俺』だが、電話越しではないし直接誘われたんだから…アレ?よく分からないけど…まぁとにかく棚から牡丹餅ってことで。


「まじでか!?行くアル!!」


「じゃあ決まりな。下駄箱で待っ「神楽サン。」


第三者の、低い男の声がそれを遮った。

後ろに待機していた2人とも違う声。

声のする方へ、ゆっくりと二人は首を回す。
教室の後ろのドア付近に誰もが知っている男が立っていた。


「お・・・沖田先生。」


男を見て、一番初めに声を発したのはバスケ部の彼。

沖田を知らない生徒はいない。

とにかく容姿端麗で、甘いマスクが彼の代名詞。女子からの人気は計り知れない程で、彼の受け持つ補習・特別授業は毎回満員。

男子からしてみれば厄介というか敵というか、あまり良い存在ではないには違いないが、特に嫌な教師というわけでもなく女子からも男子からも好かれる男だった。



「神楽サン。この前の定期テストの件で話があるんだけど。いい?」


有無を言わさないオーラを沖田に感じ取った神楽は、断れるわけがないと諦めた。


「分かりました。」


神楽の返事を聞くなり、沖田は正面を見据えて入り口に立つ男に向かって告げた。


「ってことだから。残念だけどカラオケは君達だけで行ってね。」


普通の教師なら、放課後寄り道するなんて言語道断などと説教をする場面だが、そうしないのは沖田が人気教師である理由の一つである。


少し残念そうな表情を見せた男に、神楽は申し訳なさそうに謝る。「また今度誘ってネ。」という社交辞令も忘れず。


ああ・・・。それにしても、せっかく奢ってもらえるチャンスだったのに。












三人の男達が去って行った廊下を沖田は暫く眺めた後、教室に残された一人の少女へと視線を移す。

不貞腐れたような表情をする彼女に、不貞腐れたいのはコッチだと内心思いつつも、とりあえず場所を移動すべく教室に入って少女の腕を掴み、ずるずると数学科研究室へと連れ込むことにした。



廊下の窓ガラスを通して見える青空と夕焼けの中間にあたる空は、どこまでも中途半端だった。














「セクハラ教師。拉致は犯罪アル。」


腕を強く引かれて、連れ込まれたのは狭いスクエアな空間。

何度も訪れたことのある部屋は、相変わらず埃っぽいし、あちらこちらに書類やらプリントやらが山、また山と積み上げられていて、いつ倒壊事故を起こしてもおかしくない。



「拉致じゃねェよ。お前を助けてやったんでィ。『沖田様』と呼べ。或いは『御主人様』でも可。」


「それはお前の趣味ネ。さっさと帰らせるヨロシ。テストの話なんて嘘っぱちのくせに。」


「あ、バレた?」


ニヤニヤと不敵な笑みを浮かべながら言う沖田を見て、神楽は表情を歪めた。
本当にタチの悪い男、と改めて思いながら。


「いっつも同じ手口アル。馬鹿ですか?教師のくせに。」


「こうでもしねェと会えないだろィ。俺、お前の担任でも副担でもないし。」


「会わなくていいアル。学校ですれ違ったりするだけで十分ネ。」


「ヒデェ。仮にも俺達付き合ってるのに。」


沖田の最後の言葉に、軽く鳥肌がたった神楽は深い溜息を代わりについた。




少なくとも入学式時点では沖田に何の感情も持っていなかったはず。

なのに、いつから道を間違えたのか。

どうしてコイツと付き合うことになったのか。

しかも、お互い教師と生徒という立場。



「俺が必死にテメェを口説き落として、めでたく夏休みから恋人同士になったんでィ。」

沖田が自分の机の上にある書類を整理しながら神楽の心の中の答えに返事をする。


「なんで・・・。」


「心の声、ただ漏れ。」


脱力して下に俯く神楽に、自分の机の前にいた沖田が急に接近した。

驚いて神楽が顔を上げると、すぐ近くに彼の整った顔。


女子生徒が騒ぐのも無理はないかも、と思いながら沖田の顔をじっと神楽が見つめていると、急に沖田の顔が離れていった。



「お前さァ、もうちょっと警戒心とか持たないワケ?」


神楽と一メートルくらいの距離を保つと、沖田は先程まで浮かべていた笑みを引っ込めて、今度は不愉快そうな顔をして言った。

沖田の意味することが理解できない神楽は、「はぁ?」と間抜けな声を出す。


「無防備だって言ってるんでィ。」


今度こそ、沖田の表情は怒っているようだった。

叱られる理由も分からない神楽も、不快そうに顔を顰める。


「あんな奴等に誘われて、何にも考えずに話に乗るな。」


沖田の一言に、神楽が我慢し切れずに反論する。
勢い余って、傍にあった書類の山が崩れそうになった。


「『あんな奴等』って何アルか!?大事な私の友達ネ!だいたい、恋人同士だからって何でお前にアレコレ指図されなきゃいけないアルか!!おかげで男友達と夏以来遊んでないアル。お前が全部阻止するから。」


一気に長セリフを叫んだ神楽は、僅かに息切れをする。

不満が溜まっていたのは事実。沖田と恋人同士になってから、男友達と遊ぶことは勿論、女友達とでさえ頻繁に出掛けることがなくなった。

友達と遊んだり騒いだりしたいのは、年頃の女の子であれば当然のこと。まだ社会人でもあるまいし、恋と友情の微妙なバランスの保ち方や駆け引きなど知るはずもない。そんな器用なことは女子高校生には到底無理なことだった。



神楽の反論に、沖田は明らかにムッとした表情を見せる。

自慢の綺麗な顔が歪んだ。


「お前が無防備だから心配して言ってるんだろーが。分かんねェなら勝手にしろ餓鬼。」


この一言に、神楽の元から短かった導火線は瞬く間にショートした。


「じゃあ勝手にするアル!!このサド変態教師!!ロリコン!!」


傍にあった書類の山を一つ完全崩壊させ、目尻には悔し涙を浮かべて荒々しくドアを閉めて部屋から出て行く。















喧しい音を聞いた後、沖田は言い過ぎたと反省したが後の祭り。

崩された書類の山は、確か一昨日くらいに同僚の数学教師が徹夜覚悟で必死に並び替えて整理したモノ。

憐れにも床に散らばった紙を見るが、そんなことを今は気にしている場合でもない。

しかし散らばったソレは、散り終わった桜を連想させた。









彼女、神楽を初めて見た日の記憶が鮮明に蘇る。


入学式に、桜の木を喜びとも憂いともつかない蒼い瞳で見つめていた少女。

セーラー服から覗く白い透き通るような肌に、対照的な濃い橙色の髪。

一目惚れだった。


他の生徒達とは違う、何かを感じた。

衝動的な想いを。






しかし不運なことに、神楽の担任にも副担任にもなれなかった沖田。接点が皆無では話にならないと悟った彼は、神楽が数学嫌いで苦手という情報を女子生徒から入手し、そこを責めていった。


それでも警戒心の強かった彼女は、中々沖田のことを信用しようとはせず、むしろ避けていたという方が正しかった。




そんな状態から、漸く恋人同士という関係にまで発展した二人。

元々、危うく脆い基盤の上に立てられた関係だった。


ちょうど板チョコを湯銭で溶かす時と同じ様に。

いつでも浸水の可能性がある関係だった。








教師と生徒?そんなもんクソ喰らえ。

口説いて口説いて、やっと落とした彼女。

こんなことで終わらせて溜まるか。





散らばっていた白い紙を踏みつける。足跡が残ろうが、どうでも良い。紙は床の少し上を舞い、男が部屋から出て行った。



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