「去年の秋にさ、俺、この山で迷子…っつーか、遭難しかけたんだ。途中でコケて腕の骨折って。マジでどうしようかと思った」
彼は懐かしむように、慈しむように、案山子に目線を送る。
「そんな時、こいつに会ったんだ。どうしよどうしよって半パニックになってたけど、こいつ見てそれが和らいじまってさ。俺笑っちまった。腕すげー痛くて、帰り道分かんねえのに」
こいつすげーよな、と笑い、リュックを地面に下ろした。
「んで、これ」
開けて、直ぐにそれは見えた。
ひょいと取り出して獄寺に見せる。
「…笛?」
「そ、リコーダー。これが何だか知んねーけど、この案山子の下に置いてあったんだ。腕ぶらんぶらんだったから、これで固定して。そのお陰で歩き回れて、何とか山を下りれた」
青年は草を掻き分けて、案山子の足元にリコーダーをそっと置いた。
白いリコーダーの胴に、青いマジックで「ありがとう」と書いてあった。
「謂わば命の恩人、かな。人じゃねーけど!」
ははは、と一人で笑う彼を獄寺は黙って見ていたが、次に俯いた。
青年が、心配そうに覗き込んでくる。
「どうした、具合悪いのか?」
「…俺家出してきた」
「は?」
「だから!お前がさっき何してんだって聞いたんだろが!い、家出してきたんだ!」
獄寺は尚も俯いたままに叫んだ。相手は目を丸くして、口を閉じた。
「ここには知り合いに頼る為に来た。…でももういなくなってた。後頼るとこもねーし…」
唇を噛む。
自分で改めて置かれた状況を口に出すと、虚しさがじわりと襲ってきた。
しばらく沈黙が漂ったが、青年は獄寺に近寄り、しゃがみ込んで顔を見上げた。
獄寺と青年の目線が交叉する。
「詳しい事情は知らねえけど、お前が選んだんならそれでいいんじゃねえか?頼るとこが無いなら見つけりゃいい。例えば俺とか」
優しく微笑まれて、ぽかんとした。
「お前が頼るなら、出来る限りは力になるぜ」
「おま…っ、名前も知らねえ他人に、よくそんな事言えるな」
「名前か?俺は山本。山本武。お前は?」
「……獄寺だ」
「よし、獄寺!お互い名前知った事だし、問題ねえだろ?」
「……」
そういう事じゃねぇだろ、と言ってやりたかったが、にこにこと自信あり気に笑う山本に、何もいい返せなかった。
「とにかく、互いにここにいる用はもう無いわけだ。とりあえず山下りようぜ。頼るかは町に出るまでに考えればいい」
また彼は案山子の頭を撫でる。
名残惜しそうに。
それが済むと、リュックを背負い直して獄寺を見た。
「行こうぜ」
くるりと背を向けて歩き出した。
獄寺は、案山子を見やる。
全くふざけた顔したやつだと、内心笑った。
安堵感がふつふつと湧いてくる。町に出られる見込みのある事によるものだけでは、きっと、無いのだろう。
何かの縁なのだろうか。
山本を追いかけようと思ったが、足を踏み出す前に、カバンに手をやった。
財布を出して、小さなポケットから、銀メッキの剥がれた懐中時計を取り出すと、鎖部分を案山子の藁のささくれにかけた。
ここが自分の新しい人生を踏み出す場所であるように。古い記憶に縛られないように。
シャラリと軽い金属音が鳴って、懐中時計はふらふらと左右に揺れた。
2、3度ひらりと手を振り、カバンを掴んで、足早に去った。
決して振り返ること無く。
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