一面が緑緑緑…。
こんなところだったかと獄寺隼人は些か驚いた。
以前に見た景色とは似ても似つかないものだ。
場所を間違ったのかと来た道順を追うが、やはりここは自分の訪れたかった場所に間違いが無いことに安堵し、同時に戸惑う。
あれから随分経てど、こんなに変わるものなのかと獄寺は記憶と違う風景に呆然とした。
確か前に来たのは、五年程前だったと思い出す。
母と連れだって、父と、その結婚相手、そしてその子供に会いにここまで来ていた。
それは一度だけで、その家族に会ったのもやはり一度のみだった。
その子供は獄寺と同い年で、だけれど彼は随分幼く見え、年齢を聞くまでは獄寺自身よりも年下だと思っていた。
遠慮がちに笑い、それでも意外に親しく接してくれたのが印象的だった記憶がある。
彼の名前は沢田綱吉。
彼の父親は獄寺の父親で、彼の母親は獄寺の母親とは別。
彼の父親の結婚相手は彼の母親。
獄寺の母親は、綱吉の父親の愛人で、つまりは不倫相手である。
そんな中で産まれたのが隼人だ。なんだかドロドロとした昼ドラを想像しがちだが、獄寺家と沢田家は特別険悪な関係では無かった。母親は父親も綱吉の母親も嫌っても恨んでもおらず、何故かと母親に聞かなかったし、母親もそれに関して何かを話すことは無かったため、何がどうしてこうなったのかは獄寺は知らない。
だが、険悪では無いだけで、仲が良い訳でも無かった様だ。
…と獄寺は思っている。
今生で一度しか会いにいった事がないというのは、そういう事なんだろう。
そして数年間、その事など忘れていた。
今まで母親と二人だったし、それなりに幸せだった。
他に家族を作った不貞な父親や、その家族など、獄寺にとっては極めてどうでも良い存在で、これからも母と二人ならそれでいいと思っていた。
だが、事態は一変した。
ある日母が過労で倒れて、病院に運ばれたがそのまま亡くなってしまった。
獄寺が把握出来ない間に、彼女の骨は骨壺に納まり、手元に帰ってきた。
そして呆然と白い無機質な壷を見て、彼は母の死を受け入れざるを得なくなった。
一人になったと分かると、無表情だった顔に涙が伝い、やっと泣くことが出来た。
墓も無いので(たてる金も無く)、行き場所もなく、側に置くしかなかったが、獄寺はそれで良かった。
それを置き去りにする気はさらさら無かったのだ。
それから祖母の家に住むことになったが、その祖母が獄寺を毛嫌いしており、何かにつけては叱り、体罰と称して虐待を重ねた。
祖父は見てみぬふりを突き通し、庇おうとはしなかった。
それが一年と続けば嫌になる。
まさか老人に手をあげる事など出来るわけが無かったが、自分の性分上、やってしまう可能性が高いとあらゆる意味で自分の身の危険を感じ、少ない荷物をカバンに纏めて出てきた。
行く宛など無く、五千円と、母の形見の懐中時計の入った財布だけが命綱。
とりあえず近所の寂れた小さな公園にやってきた。
腐りかけたボロい木のベンチに腰を下ろし、今後を考える。
しかしなんにも浮かばない。
空を見上げれば、神様だかなんだかが、お告げ的なアドバイスくれればいいのにと獄寺は思う。
夏の青空とは、どうしてこうも青いのだろうか。
自分の置かれた立場と正反対に清々しくて、腹が立った。
じーわじーわ。
みんみん。
どこかの木で、喧しく多種のセミが鳴いている。どうしていいか考えられないのをセミのせいにしたかった。
夏、セミ、青空。
獄寺の脳裏に、ワードが引っかかって、何かフラッシュバックした。
山の中に広がる田園と、ぽつんと佇む茅葺きの農家。
(―沢田。)
そうだ、忘れていた。
父親がいたんだ。
思い出したと同時に、獄寺はすっくと立ち上がり、鞄をひっ掴んで公園から駆け出していた。
そこに向かって走った。
なんせ昔に、一回だけ行った場所だ。当たり前に道順はあやふやで、でもとにかく思い出せる限りに辿っていく。
少しでいい。
きちんと生き方を決めるまででいいから、置いて欲しかった。
嫌だと言われるか分からないが、仮にも俺は奴の子供だ。情に訴えれば、きっと…と、自分を励ました。
頼りはそこしかないのだから。
―…
獄寺は、辛うじて歩ける、草の茂る元来畦道だった所をゆるゆる歩いた。
頭には先程までハテナが浮かんでいたが、それはもう崩れ去っていた。
代わりに、絶望的な予想が構築されている。
当たらなければいい、と思う。
かつてそこにあっただろう田んぼは、無法地帯の野原に変わっていた。
以前その奥の山のふもとの木の影に、茅葺き屋根の家があったはずなのだが。
見当たらない。
何処をみても、見つけることが出来ない。
獄寺は、最悪の憶測が当たってしまったことに瞼を閉じた。
もう、―いないのだ。
ここまで苦労して来たのに当てが外れるとは。
予想外にダメージは大きかった。
これからどうすればいいのだろうと、暗い気持ちになる。
行く場所など、ない。
頼るあても、ない。
だからといって、あそこに戻る気などさらさら無かった。
しかし獄寺は分かっている。
ここにいてもどうにもならない事を。
ここは誰もいない。
どうにかするには、里か町かに下りるしかない。
だが、ここらの地理など全く知らないのだ。
どの方角に行けばいいのかすら、分からない。
太陽照る夏の山を、ぽつぽつと歩き出した。
青々とした草が、行くてを遮るように分厚い壁となる。
歩きにくくて、舌打ちをした。
じわりと汗が浮き、Tシャツを濡らし、それは不快感へと変わる。
この暑さの元には何もかもが鬱陶しく感じた。
イライラがどうにも高まって、「あ゙ーっ」と乱暴に唸り、鞄を足下に投げ捨てて、髪を掻き乱した。
「大丈夫か?」
ぽん。
ふいに肩に手に触られて、獄寺はビクリと跳ねて、振り向いた。
そのまま姿勢を崩して、豪快に尻餅をついた。
見上げれば、黒い短髪の青年が見下ろしていた。
相手が人間だと分かった所で、取り乱して尻餅までついた己の失態に、羞恥が湧き、怒りへと変わる。
「てめえっ!何すんだ!」
突然の暴言に、相手はキョトンとした。
しかし、次には困った様に笑い、「わりぃわりぃ」と手を差し伸べてきた。
その姿は全く悪びれた様子などなく。
「驚かすつもりは無かったんだぜ。結果的に驚かしちまったのは謝る。なんか、様子が変だったから声かけたんだ」
最後にまた「大丈夫か?」と付け足して笑った。
それは何とも爽やかな笑顔だ。
「別に驚いてねえ!勝手に言うな!」
差し伸べられた手を無視して獄寺は付いた草を払いながら立ち上がる。
「そっか。ならいいけど、こんなとこで何してんだ?」
「なんだっていいだろ。お前こそ何してんだ」
「ん、俺?俺は借りたもの返しに来たんだ」
答えにならない事を返されたが、青年は一向に気にしないで、答えた。
「借りたもの?」
「そ。な、時間あんなら、ちょっと着いてこいよ」
そういうと、青年は獄寺を抜いて畦道を進んでいく。
「あ、おい。ちょ、どこいくんだよ!」
獄寺は慌てて追いかけた。
追いかけて、はたと自分の行動に気付いた。
(なんで着いていくんだ…)
置いていかれる。
そう感じたのは、どうにもならない事実で。
しかし、そんな女々しさに納得行かず、元々こっちに行く予定だったしと理由をつけて思考を止めた。
相手の背中を見る。
Tシャツにジャージのズボンを膝丈まで捲っており、肩にはリュックが背負われている。
背丈はあちらが若干高く、年上を思わせる体格だが、雰囲気的には同い年の様に思えた。
「ほら、あそこ」
歩きながら腕を伸ばして指された先。
ぼうぼうと背の高い雑草の茂る中に、何か突き出ているものがあった。
近づく程に分かるシルエット。
麦わら帽子だった。
青年は早足になり、一足先に到着すると、麦わら帽子をぽんぽんと撫でた。
嬉しそうに微笑むその表情を獄寺は不思議に思う。
着いてみると、麦わら帽子には被り主がいた。藁で出来た150cm程の背丈の案山子だ。
体は頑丈にしっかりしているのに比べ、それに不釣り合いなのは頭部を覆う白い手拭いに描かれた顔、というより表情だ。
真正面に立ったって、獄寺と目線が合わず、どこか見上げている。眉は真っ直ぐで、口は何か言いたげに曲がり、何とも無愛想に映る。
獄寺は「うわあ」と言葉に出来ない心情になった。
その獄寺を見ていた青年は「だろ?」と笑う。
「すげー顔だよな!最初見たときも笑ったけど、今見たって笑える。…でもな、俺はそれに救われた」
明るかった青年の声色が、僅かに下がった。
獄寺は青年に目をやる。
→
.