春も少しずつ遠ざかっていく四月。町には雪など一つも残ってはいないけれど、山々が連なるここには、あちらこちらに白い塊が点在している。
出来れば、この畦道にも雪を敷いておいて欲しかった。
雪溶けでびちゃびちゃとぬかるむ小路はとても歩きづらい。
どこもかしこも、ピリピリと冷たさが肌を刺して痛い。
でも、左手だけは違う。
お互いに繋いだ手だけが温かくて、それだけが私の安心できる拠…。
隣を歩く私の兄は、私より頭一つ分背が高く、常に助けてくれる優しい人。
私がどんなに泣いても拗ねても、決して怒らずに側にいてくれた。
かけがえのない、唯一の肉親。
そう、私達には私達しか血が繋がる人がいない。
一年と少し前、両親は心中してしまった。
学校から帰ったら、先に帰ってた兄が、首を吊ってブラブラと垂れ下がる二人を、無表情で眺めていた。
兄は私に気付くと、すっくと立ち上がり、私を抱き寄せた。
私は兄の胸に顔を埋められて、それ以上、変わり果てた両親を見ることは無かった。
直ぐに大人達を呼び、それらは片付けられ、私達だけが残された。
親戚もとうに疎遠で、誰で、どこにいるのかも分からず、頼れるものなど無くなった。
元々貧乏だった我が家にお金だってない。しかも、父のギャンブル好きと、闇金に手を出していた事があり、莫大な借金が相続されてしまった。
それはとても返せる額では無く。
でも、兄は心配する事ない、と励まし続けてくれた。
私がどんなに泣いても喚いても反抗しても、兄は毅然とした態度を崩さなくて、…そんな兄だから、私は安心して泣けた。
借金取りは毎日のように押し掛けては、子供であろうと容赦なく脅してきて、そんなある日、とうとう家からも強制的に追い出されてしまい、私達は途方に暮れることになった。
少し長居すると、何故か簡単に借金取りに見つかるため、特定の場所にいる事など無く、町を転々としては、小銭を拾ったり、恵んで貰ったり、…たまには盗んだり。
冷たい川で体を洗い、兄が何処からか拝借してきたボロい毛布に二人でくるまって眠る。
辛くて悔しくて、でも、寂しいことなど思わなくて。
そんな生活も一年と過ぎた。
私達は、山を超えた隣の市まで行く為に、長い山道をひたすらに歩いている。
私は兄の手を握りしめて、着いていく。
と、兄がふらりとよろけた。
私はびっくりして片方の手で体を支える。
「平気です、大丈夫。足が少し疲れただけです」
直ぐに背筋を伸ばして、何事も無かった様に笑いかけられた。
大丈夫?大丈夫な訳がない。
ここ何日と食料は僅かで、兄はそのほとんどを私にくれていた。
どんなに私が兄に返しても、お腹が空いてないとか、好物じゃないと、何かと理由をつけられ、それでも私が兄に食べるよう促せば、粗末にするなと怒られる。
結局、私が食べたのだ。
最近では私より顔色も悪く、お揃いの藍色の髪は、以前と比べ物にならないほどに艶がない。
優しい彼の笑顔は、あの日からずっと作り笑いで、それすらもボロが出始めている。
上手く笑えないくらいに衰弱して、痛々しい。
でも、私はそんな兄に、無理するななんて言えない。
言ったら今の兄が崩壊してしまう気がして恐ろしかった。
「…私も疲れました。ちょっと休みましょう」
「凪が疲れたのなら仕方ありませんね、…あぁ、そこで休憩しましょうか」
兄の指差す先には、麦わら帽子を被せられた、藁の案山子がたっていた。
近寄れば、案山子の着ているくすんだTシャツは、しっとりと濡れていて、余計寒々しく思える。
「寂しそうな案山子。ここらはほとんど誰も通らないでしょうに」
私がそういうと、兄がくふふと笑った。
「寂しいのに、見てください。可笑しな顔。彼は泣きたくてもこれじゃ泣けない。ずっとこんなふて腐れた顔で立ってなきゃいけないなんて、…悪いけど滑稽ですよね」
私は目を見開いた。
いつぶりかの、兄の自然な笑顔だった。もう笑い方を忘れてしまったのではと思っていた。もう見れないんじゃないかと思っていた。
泣きたくても泣けないのは、あなたでしょう。
この案山子が兄に重なって私には見えた。
仮面を被って、顔を偽って。
滑稽だと笑われて。
端から見れば、私達は滑稽なんでしょうね。
それでも、―ねえ?
どうでしょう?
そんな滑稽な案山子でも誰かを笑わせたの。
誰かの仮面を剥いだの。
「本当そう、滑稽。可笑しな顔が、とても面白いです」
そんな彼にありがとう、と心の中で呟いた。
そんなの知らないと言うように、案山子は、芽吹き始めた木々の天辺を、卑屈そうに見ていた。
ひとしきり案山子の話題を交わして、その下に腰を下ろす。そこは周りに比べて多少土が乾いており、座るのにはいい場所だった。
だけど、ひんやりとした土に手を置いたら何か違和感がして手をどける。
少しこんもりと盛り上がり、何やら埋まっている様だった。
もう一度手を置いて、左右に動かして土を払う。
やはり土では無い感触がして、動作を速めた。
キラリ、太陽の光を反射して、錆がかった銀色の平たい玉、二枚が顔を出した。それは、とても見覚えのある…―。
「兄さん、見て下さい。これお金じゃ…」
拾い上げて、汚れを袖で拭えば、元の輝きが戻った。
兄がそれを見て、一瞬黙った後、いつもの様に穏やかに返してきた。
「本当ですね。でも、きっとお供えでしょう。ここに置いてあったなら」
「案山子にお供えなんかするんでしょうか」
「落とした確率の方が低いですよ。こんな山の中に、一体だけ案山子があったら、地蔵に見立ててしまう事もあります」
だとしても、だ。
これは思わぬ収穫。
私はそれをポケットにさも当たり前の様に、突っ込もうとした。
だが、兄さんが手を掴んで、止めた。
「お供え物です。バチが当たりますよ。お返しなさい」
「…でも」
でも、これがあれば、兄さんの食事が…。
「案山子の物です。盗ってはいけません」
「……はい」
そこまできつく言われることも珍しい。私は、逆らえずに土の上に―、案山子の元へ戻した。
こんなところに使うことのない案山子が持っている方が勿体無いのに。そうは思えど、兄に言われると盗る事に(なるか私には判らないけど)少し躊躇が出てしまう。
私は唇を噛んで、案山子の足を恨めしく見た。
「凪、行きましょう。暗くなる前に、どこか屋根のある場所を見つけないと」
兄が立ち上がるのに釣られ、私も立ち上がる。
そこで兄の目が、私と案山子から外されたのを見て、私は地面のお金を素早く拾い上げると、ポケットに押し込んだ。
三歩程距離が空いたのを小走りで埋める。
盗った事に微かに罪悪感を覚えはしたが、兄の為だといい聞かせた。
だが、気になって振り返る。
久々の兄の笑顔を見せてくれた案山子に、やはりこれでは悪い気がした。
妙な行動に気付いた兄が、足を止めた。
「凪?」
私はもう一度、案山子の元にいくと、胸元にさがる縮緬(ちりめん)紙で出来た小さな赤い袋を取ると、案山子の足元に置いた。
それは生前の母に貰った、お守り。
大切な物同士、物々交換。
これなら、許してくれる?
私は、直ぐに兄の所へ戻った。
兄は大切なお守りを案山子へあげたことに関して何も聞かずに、私のすっかり冷えた手をとって歩き出した。
彼が、私がお金を盗った事に気付いたかは分からないが、気付いていたとして何も言わないなら、そんな彼に甘えてしまいたい。
少しばかり、命が長らえる事に安堵して、兄の手を握り返す。私はちらりと首を横に回して視界の端に案山子を捉えると、もう一度「ありがとう」と、今度は言葉にして小さく小さく呟いた。
案山子は尚もそこに佇んで、空虚な瞳で何処かを見つめていた。
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