キノコがたくさん採れるこの山に来たのは初めてではない。
割烹料理屋を営む親父と何度か来たことはあったのだ。
だが、今回は忙しくて俺一人で来させられた。
親父も俺も、心配なんてしていなかった、のに。
知った場所だから大丈夫だと、軽い気持ちで奥まで来たのが間違いだった。
気付けば知らない場所にいた。
周りは同じ様な樹が並ぶ。
遠くで鳴く鳥の声しか聞こえない。
さてそこで引き返せば良かったのだ。
何故か俺はふらふらと更に奥へ進んだ。自分でも不思議に思っていたが、体は勝手に進んでいっていた。
ざくざくと秋の樹が落とし積もったふかふかの絨毯を靴で踏みつけながら、俺はある事を思い出していた。
この山には、化け狐の伝説がある。山の神である狐は大変いたずら好きで、来た人来た人、次々と迷わせるのだとか。
それはどこにでもある地方の民話で、語り継がれこそ真に受けて信じるものなどいない。
だが、俺はそれを今、信じてしまいそうだった。
引き返せばいいのに。
何故そうしないのか。
足は奥へ奥へと向かう。
まるで狐がそうさせている様に。
どのくらい歩いたのか、俺はいつのまにか汗びっしょりとかいて、首に巻いていた手拭いは絞れる程だ。
息を切らしながらいると、突然、拓けた場所に出た。
何だろうと気がそれて足元が疎かになっていた為か、1M程の段差に気付かなかった。
俺は足を滑らせて、何の受け身も取れないままに落下した。
身体全体に痛みが走ったが、特に右腕に鈍く重く、そして激しい痛みがあった。
そこには力が入らず、思うように動かせなかった。
どうやら折れているようだった。
痛みに顔を歪ませながら、何とか立ち上がる。
背負っていた藁で編まれた収集カゴは、隣に転がっていて、それを左手で担ぎ上げた。
今まで不自然に動いていた足は完全に止まっていた。
草の生い茂った畦道に立ち尽くして、辺りを見渡す。
今立っている畦道の前にはもっとボウボウに伸びた草に覆われた、樹の無い土地。
捨てられた田んぼだと、俺は思った。
そして人気のしないそこを眺めて、とても困った事になったと一人ごちた。
とりあえず、近くに他の農家があるのではと畦道を右に歩く事にした。
早く帰りたいのもあったが、何より急ぎたいのは、この腕の治療だ。
痛くて痛くて、満足に歩いてもいられない。
一刻も早く、何とかしたかった。
ふと、生い茂るススキの中に、飛び出ている物を見つけた。
近づくと、帽子だと判る。
一瞬人かと胸が高鳴ったが、直ぐにそれが間違いであると気付いた。
帽子の下は、藁で編み込まれた人形。どこか虚ろにさ迷う目と歪な線で描かれた、鼻と口。
案山子だった。
不安だった気持ちが、その間抜けと形容出来る顔を見ると和らいで、何だコレとしまいには笑ってしまった。
こいつも一人で大変だなあ、と変な親近感を持ち、どっと疲れがきたせいで、案山子の下に座り込む。
少し、少し休むだけ。
腕を庇いながら空を仰ぐ。
晴れ渡った秋空だ。
トンボもちらほら飛んでいる。
視界の端には、案山子の麦わら帽子の陰になっている顔がちらりと映った。
こんな状況で無かったら、とても素晴らしい光景なのに。
全く残念だ。
さあ歩かねば。
暗くなってからでは危険すぎる。
俺はため息を吐きながら、重い腰を上げた。腕がじくりと痛んで、声にならない痛みを叫ぶ。
一息ついて歩き出そうとすると、コツンと足に当たった。
何かと見れば、白い筒の笛…リコーダーだった。
何でこんなところにリコーダー?
だが、俺はハッとして、それを拾い上げた。
背負っていたカゴを下ろして、足で押さえながら左手で、思いきり引っ張った。
ズズズ、と藁で編まれたものがほどけて、一本の太いロープが出来た。
折れた右腕にリコーダーを添えて、ロープでぐるぐると巻き付ける。
最後に、首に掛ける部分を作り、固く結び目を縛った。
我ながら上手い策だと思う。
リコーダー位固ければ良い添え木になるし、先程より格段に状態はいい。
これなら少しくらい我慢して歩けるだろう。
リコーダーがあったのはとても不思議だったが、きっと神か狐か、それとも案山子か、誰かからの贈り物だろう。
俺は案山子を帽子の上からぽふぽふと撫で、サンキューな、とお礼を言った。
案山子は相変わらず、虚ろで、目線が合わない。
ハハハ、と笑う。
何か無いかとポケットに手を突っ込めば、チャリンとぶつかる音がして、手の中に200円が握られた。
それを案山子の足元に置いた。
無事に帰れますように、と願いを込めて。
まだ日は高い。
ほどけて歪なカゴを背負い直して、案山子に背を向けた。
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