「では行ってきます」
「父さん、ローラ、気を付けてな」
「何、心配はいらない」

息子にそう言う父は寒さに少し震えていた。コートにマフラーをしていても、霧は気温を下げ続ける。私はそんな父に寄り添った。そこに母が畑の方から駆けてきた。

「いってらっしゃい。これ、お昼に食べてくださいね。あら、ローラ!あなた何て格好なの。マフラーはどうしたの」

パンを包んだ袋を父に渡した母が、父より薄着の私に気付いた。
そう言う栗色の巻毛を一つに束ねた母も、上着を着ていなくて、私よりも薄着だった。
それで寒い畑に出ていたのかと咎めたかったが、みっともない屁理屈な気がして喉まで出掛かった言葉を飲み込む。

「していった方がいいわ。あなた風邪引きやすいんだから」
「持ってくるよ」

別にいらない、と言おうとしたら、早口でそう言いながら兄が駆け足で家へ入っていった。
直ぐに白いふわふわのマフラーを片手に出てきて、私に巻き付ける。

「ありがとう」
「兄の務めさ。さ、早くいかないと、待たされるぞ」

お礼を言えば兄は微笑んで頭を撫でた。

「ローラ、行こうか」
「気を付けて。道がぬかるんでいるわ」
「大丈夫です。じゃあ、行ってきます」

父の手を握り、家を後にした。
霧が濃い。
5m先も危うい状況に、道を確かめながら踏み進めていく。
通い慣れた道でさえ、そうさせるのはこの不気味な霧のせい。

ちょっと振り返れば、もう母と兄、家すらおぼろ気だった。

「ローラ、帰りに街に寄って、服を見てこよう。暖かい服をプレゼントするよ」

私を見下ろす父の顔、服より暖かな言葉に私は幸せを感じた。今までのどんな家族よりも温もりに溢れた家族。
ジメジメと暗く、輪廻の呪縛に苛まれるこの運命で、初めての経験だった。

だからこそ失うのが怖い。

「はい」

笑い返した私は、父の手に少し力を込めた。



――…

収穫もまだ先であろう、青い穂の垂れる麦畑を過ぎる細道を歩く。所々水溜まりがあり、土と砂利が混じる地面は踏む度に泥が跳ね上がる。
やんわりと霧が頭上に昇り、視界は格段に良くなりつつあった。

ここは町までの中間地点であり、もう少し行けば舗装された街道へ出る。



何も話さない時間が過ぎる。
普段からあまり会話を交わさず、父もどちらかというと無口な方なので無言は別段珍しくも無い。当たり前と化して、居心地の良いそれを私も父も壊さない。

やがて雑木林に挟まれた、少し広がった道へと出た。

チラリと控え目に振り返る。

少し前からクスクスと言う笑い声が聞こえていた。
最初は木の葉の掠れる音かと思ったが、人の気配も僅かに感じたので、今は確信へと変わっている。
雑木林の中から、かなり音を殺した足音。誰かがついてきているのは明白だった。

目的は分からなかったが、まあ何となくは予想がつく。

「どうした」

そんな僅かな動作に気付いた様で、私にそっと聞く。まだ害も何も無い。相手が手を出さないなら、と私は「何でもない」と手を握り直した。

だが、いい気はしない。
父に負担を強いるのも気が引けたが、早く人の目のある場所に行った方が安全だったため、少し足を早める事にした。
父は何も言わずにそれに合わせて着いてきた。

街の名前が書かれた矢印の看板が目に入り、もうすぐで街道に出る事が分かり、少し安心しかけた、―その時。

ガサリ、と大きな音がした。
それは先程聞いた後ろからでなく、前方からだった。深い草を分けながら、依れて汚れた服を纏った数人の男達が表れる。
いつの間に先回りされていたのだろう。全く気付かなかった自分に舌打ちをしたくなる。

「こんにちは、お嬢ちゃん」
「なんだね君達は」

直ぐに父が良い状況で無いと覚り、低い声で唸るが、それはなんの効果にもならない。無造作に伸ばした乱れた髪の男が「なんだ、ってよ!」とゲラゲラ笑う。それに釣られて周りも笑う。

私は庇うように父を後ろへと回らせた。

「その鞄をこっちに寄越せ」

やはり追い剥ぎか。
父の体に力が入るのが分かった。パンの入った鞄を握りしめ、腰の後ろに隠すように移動させる。

「おっさん、それくれないとお嬢ちゃんが痛い思いするよ?」

そして前の男が取り出したのがサバイバルナイフで、刃先が鋭く光っていた。
直に伝わる後ろからの焦燥と困惑に、彼がそれを渡してしまう、と思った。
後ろ手で、父の持つ鞄を掴む。
これには父の医療費が入っているのだ。貧しい我が家には精一杯のお金だ。これが無いと父の命を繋ぐことが出来なくなる。

こちらは何も武器になる物を持ってきていない。
こんな時、何をすればいいのか、と、思案を巡らすよりもまず行き着いた答えに、衝動が乗り、そのまま父の手を掴んで走り出した。

肺を病んだ父を走らせては行けないと頭に浮かんだが、ここにいる訳にも父をおぶる訳にもいかない。一人ならこのまま相手を殺してしまっていただろうが、ここには父もいる。
この人数で守りきれるかには不安がある。

「逃げたぞ!」
「ほらほら待てよ」

下品に笑う男達。
振り返りはしなかったが、バラバラと土を蹴る音がする。

父がどの位持つかも分からないし、追い付かれるのも時間の問題だが、あそこで一斉に相手をするよりはまだマシだと、私の足に一生懸命についてこようとする父を支えた。

しかし無情にも足音は近づいてくる。

病気な足の遅い父。丸腰の私。
どうしようもないこの状況。

「父さん頑張って、街まで走って…!」

父は苦しそうに「大丈夫だ」と言葉を絞り出すが、それのどこにも余裕が無い。
荒い息遣いと咳き込む様子に限界だと知らされ、私は唇を噛んだ。



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