三王堤防(さんのうていぼう)
2011.05.02 Mon 07:30
貞光工業高校は県内ラグビーの名門で、夕方グラウンド脇を通り過ぎると、高校生の部員たちが全力で走りまわって練習している。
三王堤防は、この貞光工業グラウンド北側にある。
今朝は、河川敷公園ゆうゆうパークを見下ろしながら国道沿いに三王堤防を目指した。
手元のハンドブックを見ると、石積みの堤防が写真に映っている。
貞光工業高校が見えてきたので、国道を横断して三王堤防を探しながら歩くことにした。
貞光はその昔たびたび洪水にみまわれていた。明暦3年(1657年)時の代官、原喜右衛門の指揮で三王堤防が吉野川の南に作られはじめた。堤防は天幅6m、底幅15m、高さ4.5m、長さ524mもの大きさだ。
524mとかいう大きなものを人力で!
工事は過酷をきわめたらしく「岩一枚につき小判一枚」という文章も残されている。当時の東・西端山村(はばやまむら)や太田村、一宇、半田からも人が集められたが、あまりに熾烈な作業に民から中止の直訴が出た。
原代官は見積もりの誤差もあり切腹、従者二名も殉死したそうである。
この三人をまつって明治26(1893)年「三王神社」が建てられ「三王堤防」と呼ばれるようになった。
ハンドブックに神社が建てられた、と書いてあるからそれらしいものが多分あの辺にあるだろう、と見当を付けながら歩きつづけた。
しばらくすると「三王の碑」が見えた。土の上に建てられた碑の横に、三王堤防の由来が書かれた石板がある。私は石板を読んだ。
三王堤防はなくなっていた。
吉野川南には近年、巨大な堤防が建てられた。そのときに、三王堤防をよけることはできず、新しい堤防に一緒にうめられてしまったのである。
ハンドブックには確かに三王堤防の石積みの堤防が、写真に撮られてあった。しかし今は緑のシートでおおわれた斜面が続くばかりである。この写真は工事直前に撮られたものだろう。
石板には当時の工事の過酷さが書かれ、また、今回新しい堤防ができてその中に埋まってしまうけれども、三王堤防のことはずっと貞光に語り継いで行きたい、そう書かれていた。
朝の堤防あとはとても静かだ。そばには貞光工業ラグビー部の勝利記念「常勝桜」が植えられていた。
先人の継いできたものの上に自分は生活している、そんな時代の流れを感じた散策でありまさたとさ。
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