学校帰り、部活も委員会も生徒会の活動も無かった私は真っ直ぐ寮には帰らずにポートアイランド駅に向かった。 私と同じく学校帰りの生徒やカップルが多く集まっている賑やかな広場から少しはずれると、ほとんど人がいない暗い溜まり場に着いた。私が行きたかった場所はここだ。…と言っても不良と会ったりする事が目的な訳ではなくて……。 「ニャー!」 私に気が付いた一匹の猫は、目を輝かせながらこちらに近付いてきた。 「お、元気そうだね。お腹空いてる?」 その場に屈み込み、頭を撫でながら話し掛けてみると猫はゴロゴロと喉を鳴らして私の足にすり寄ってきた。どうやら今日も空腹のようだ。 青ひげで買ったセレブ缶をビニールからがさごそと取り出そうとすると、音でもう餌が貰えると分かったのか猫はすっかり食事をする時の顔になりくんくんと私の手元を嗅いでいる。 「そんなに慌てなくてもちゃんとあげるから大丈夫だよ」 ビニールのがさごそという音を聞いただけで興奮している姿に、嬉しくなって私は笑いながらセレブ缶を取り出す。 蓋を開けて紙皿に盛り、目の前に置くと猫は物凄い勢いで餌を食べだした。 ……そう、私の目的はこの駅前はずれにいる野良猫に餌をあげる事だった。テオからの依頼でここにお腹を空かせている猫がいると気が付いて、ここ数日その猫のために餌を持って通っている。 「そんなに嬉しそうに食べてくれると、こっちまで嬉しくなるなぁ」 明日はもうちょっと早く餌をあげたいな。頑張れば今日より早く来れるかもしれない。 そんな事を考えながら食べている姿をしばらく見つめた後、ふと顔をあげて周りを見渡してみた。 ……この前、ここであんな事があったなんて嘘のようにしんとしている。危険そうな人物はいない。 あの時、助けが無かったら今頃どうなっていたんだろう。順平は殴られてしまっていたし、女二人じゃ力も敵わないし…大変な事になっていた気がする。 「…赤いコート、か……」 こうやってこの場所に来ると考えてしまう。あの時の不良達、順平とゆかりの表情、焦る気持ち、不安感。そして赤いコートの……。 いや、考えてしまうのはここに来た時だけじゃない。気が付けば学校で、自室で、出掛けた先で。しかも考えれば考える程、溜まり場での出来事よりもあの人の事を思い出す時間が長くなって…。 かああっ、と顔が熱くなるのを感じた。最近ずっとこうだ。あの人の事を思い出す度に顔が熱くなってドキドキする。この前部活の後にふと思い出してから、ずっと。 最初はあの不安な気持ちを思い出してドキドキしてしまっているだけだと思っていた。…けど、胸が締め付けられるくらい切なくなったり、顔が熱くなったり、もう不安な気持ちを思い出してしまったから、だけでは説明がつかなくなってきてしまった。…と言うより、私が納得いかない。もう分かっているのに、自分の気持ちを誤魔化して、認めていないだなんて……。 「ほんとは、分かってるんだよね…」 餌を綺麗に食べ終え、満足そうにしていた猫の頭を撫でながらぽつりと話し掛けると、口のまわりをペロ、と舐めながら不思議そうにこちらを見つめてきた。 …そうだ、ほんとは分かってる。どうして最近あの時の事を考えてしまうのか、どうしてあの人の事ばかり思い出してしまうのか、その後ドキドキするのは何なのか……。分かっているのに、私は気付かない振りをして今日も自分の気持ちを認めようとしていない。それなのにうだうだとあの人の事を考えている。 「はぁ……、難しいね」 頭を撫でていた手を顎の下に動かし、優しく撫でると猫はゴロゴロと喉を鳴らした。初めて餌をあげた時よりもだいぶ懐いてくれているようだ。 とりあえず綺麗に餌が無くなった紙皿と缶詰を片付けようと、餌を買ってきた袋に二つともしまいキュッ、と結ぶ。 そろそろ帰ろうかな…。 そう思ったのと同時、静かな風が吹いて私の髪を揺らした。…涼しくて気持ちいい。 ここはそんなに日が当たっている場所ではないからそうでも無かったけれど、広場に出たら日が照っていて暑いんだろうなあ…。今みたいにちょうどいい風がちょくちょく吹いてくれると有り難いんだけど。 「最近熱いけど大丈夫?…猫は平気なのかな」 言葉が通じる訳では無いけどついつい話し掛けてしまう。猫は私をじっと見つめると得意気な顔をした…ような気がした。そういえば猫は人間よりも「暑い」と感じる気温が高めだとどこかで見たな、と思い出す。 「そっか…ここは日陰だもんね、大丈夫か。君は偉いなあ〜、私は毎日暑くて暑くてヘロヘロだよ」 続けて話し掛けてみると、今度は心配そうな顔になった…ような気がした。 「あはは、大丈夫だよ。ヘロヘロになってもすぐ治るし。…私の具合が悪くなったら餌が貰えなくなるもんね」 そりゃ心配するか、と笑うと猫は私の足にすりすりと顔を押し付けた。 …にしても、本当に最近は暑い日が続いている。教室はクーラーがついているから涼しいけど、グラウンドや体育館なんかはもわっ、と熱い空気が漂っていて凄く暑い。部活の時は暑さのせいでいつもの半分の時間でバテてしまう。 …部活と言えば、この前の部活の時はクラスメイトの友近が来たっけ…と思い出した。暑いなか叶先生を探していて、頑張ってるなあ…と思ったんだった。 「何のために好きなの?」 ふと、あの時の理緒の言葉が浮かぶ。友近が叶先生の事を好きだと分かった時に、理緒が友近に向かって発した言葉だった。 あの時、叶先生の欲しがっていたチケットが手に入ったから探してた…と残念そうに言う友近を見て、叶先生が好きなのかな、とすぐに分かった。「叶先生が好きなんだ?」と聞いた時に顔を真っ赤にした友近は、本当に叶先生の事が好きなんだろうなあ…。 ……何のために、か。 思わずあの人の事が浮かんでしまって、私はぶるぶると首を振る。 ただ部活での出来事を思い出していただけなのにまた考えてしまった…。 何のために……私は何のためにこんな気持ちになってるんだろう。 「いーい?何のためにとかじゃなくて――」 考えていると、友近の言葉を思い出した。 理緒の言葉に対し「ガキですな…」と溜め息を吐いた後にビシッと言った言葉。 「…あぁ、そっか……」 頭の中が急にすっきりして、身体が軽くなった。 「恋は落ちるもんなの!」。友近はそう言っていた。 その言葉が、思い出した瞬間すとん、と自然に私の頭に入ってきた。今まで誤魔化して認めようとしなかった意地っ張りな気持ちや、悩んでいた時のモヤモヤとした気持ちが一気に消えたような気がする。 あの時は「そういうものかな」と聞いていたけど、……そっか、恋は落ちるもの…。 今更あの時の言葉に納得した。そうだ、何のために好きなのかとか、どうしてとか、そういうのじゃないんだ。 私は……あの人の事が好き。 友近の言葉で、やっと素直に自分の気持ちを認める事が出来たような気がした。 「…ニャー」 猫の鳴き声で、今までぼーっとしてしまっていた事に気付く。 「あ、ごめんね。…今、凄く大切な事が分かったよ」 そう言うと猫はじっと見つめてきた。まるで「どんな事?」と聞かれているようで、私は顔が赤くなるのを感じた。いくら自分の気持ちを認めたとはいえ、やっぱりあの人の事を考えた時のドキドキが収まる訳じゃない。 「………す、」 「……」 口に出したら本当に認めた事になるような気がして、私は猫を見つめながらゆっくりと口を開いた。猫に向かって何をしてるんだろう…と一瞬我に返ったけど、ここで自分の気持ちを口に出して本当に認めたかった。好きなんだ、という暖かい気持ちを、忘れないようにここで言っておきたかった。 「…好き……なんだ、あの人の事が」 口に出してみると、今までの中で一番うるさく心臓が鳴るのが分かった。…ああ、やっぱり私は今恋してるんだ。そう実感する事が出来た。 すっきりした気持ちで猫を見ると、どうでもよさそうな顔で欠伸をしている。餌も食べ終わったし、もう眠くなってきたのだろう。 さっきまでは私の事をじっと見つめていたのに、少し経つともうどうでもよくなっちゃうのかな。猫は気まぐれだもんね。 何だか目の前の猫が愛しく思えて、私はその場で寝ようとしている猫の体をそっと撫でた。 「聞いてくれてありがとう。…また明日も来るね」 ぴくぴく、と猫の耳が動く。明日はもっと早く来いよ、とか思われているのかもしれない。 「じゃあね」 鞄とビニール袋を持って立ち上がると、猫はちら、と私を見た後に目を閉じた。 さっきのように周りを見渡してみると、見えるのは今までとは違う景色に感じる。それはきっと、自分の気持ちを認めて受け入れたからだろうな、と思う。 …また、あの時の事を思い出す。今の明るいこの場所とまるで違う場所に見える夜の溜まり場。集まっている不良達、順平とゆかりの表情、焦る気持ち、不安感。そしてあの人の姿。 もう、思い出してもさっきまでのよく分からない気分にはならなかった。 あの人の事を思い出してしまうのは、恋してるから。考えてドキドキしてしまうのは、あの人の事が好きだから。 …あの人もあの猫を見掛けたりするのかな。 ふとそんな事を思って、暖かい気持ちになった。あの人の事を、自分から考えてこんな気持ちになっている。それは私はあの人が好きなんだという気持ちを認める事が出来たから。 「……荒垣先輩…か」 名前を小さく呟いてみると、胸がきゅ、と締め付けられて少し苦しくなった。…でも、嫌な苦しさじゃない。 明日も明後日もそのずっと後も、この気持ちが続けばいいな。 ここに来るまでとは違う優しい気持ちを抱きながら、私はゆっくりと溜まり場を後にした。 |