the Song of the Mad Woman on the Seashore
2011.06.06 Mon
そこに地平線などなかった。
厚い雲に覆われた空はどんよりと重く、小言を耳元で囁くように雨が傘を叩いた。
波は荒れ、潮は濁って泡立つ。
灰色の砂浜と真っ白な海と空のコントラストが眩しい。
小さな雨粒が頬を殴りつけ、睫毛に溜まったそれは視界を遮るように滴り落ちる。
雨音、そして波音はまくし立てるように騒々しい。
しかし、世界は静であり寂であった。
自分の吐息ですら聴こえないくらいに。
革靴で足を踏み入ると、白と灰の世界に僅かばかりの動が加わった。
虚ろな目をした男が一人いた。
男の黒い服が、静寂の中でモダンなオブジェのように異質であった。
男は振り返った。
「探し物か」
声をかけた途端、思い出したかのように足元を見下ろした。
しかしそれも束の間、再び虚ろな目を黒々と淀ませた。
彼の足元にはある女の屍骸があった。
真っ黒に焼かれ、最早女であったかすらも分からない。
後に残ったのは灰と骨。
雨に濡れて晒され、すでに砂の一部と化している。
焼け焦げて腐った肉は、きっとすでに砂の波に浚われた。
「探しに来たのはいいが、もう面影すらなかった。こんなの彼女じゃない」
男の革靴が頭蓋骨を蹴る。
カラン、と木琴のような音がした。
それも一瞬のことで、あとに響くのは雨音、波音、そして静寂。
その男、リゾットは天を仰いだ。
瞳や口に水滴が落ちてくるのも気にせず、何か呟きながら十字を切った。
供養か、懺悔か、はたまたたちの悪い冗談か。
それは本人にしかわかり得ない。
きっと足元の骨も笑っている。
「後悔は」
「してない」
「ならどうして」
「生憎人間だからだ」
「悔しいのか」
「そんなはずがない」
「出来れば避けたかった」
「仕事だ」
「だがお前は」
「何が言いたい!」
リゾットは声を荒げた。
怒りや憎しみ、焦燥感がにじみ出た表情だ。
「彼女は仕方なかった!ここで死ぬ運命だった!俺たちに殺される運命だった!俺たちもまた、彼女を殺める運命だった!だから殺るしかなかった!たとえ彼女が愛する人だったとしても!殺すほかになかった!」
「回避できた方法は?」
「あるか?あったか?そんなものはなかった!これが俺たちの正義だ!俺たちは間違っちゃいない!違うか!わかるか!俺たちにとっては都合のいい正義は!それがたとえ人殺しであったとしても!それがたとえかつて愛した女だったとしても!この世から葬り消し去り無にすることだ!」
男はけたけた笑いながら地を這うような声で叫んだ。
まるで気が狂ったかのように、いや、もしくはとっくに気が違ってきているのかもしれない。
彼、そしてそれをただ見つめる俺を嘲笑うかのように、雨は降り、波は打ち寄せた。
地平線などないこの世界は、あるいはただの狭い箱の中なのかもしれない。
誰かが俺たちを監視、もしくは操作しているのだろう。
頬に打ち付ける雨が、俺の頭をどんどん胡乱なものへと変えていく。
「殺したく、なかった」
息を切らした男は、その場にしゃがみ込んで骨を拾った。
黒く焦げたはずのそれは、まるでこの空間のように白い。
降り注ぐ雨が汚いものを全て浄化させたからだろうか。
「殺したくは、」
男の元によって、傘を閉じる。
それをスコップ代わりに浅い穴を掘ってやると、男はその中に拾い集めた骨を埋めた。
ごつごつとした手が、湿った砂をかき集めて白を隠していく。
ゆっくりと、それでいて愛おしそうに。
きっと女の髪をこうして撫でていたのだろう。
それも今となっては昔の話だが。
「なかったんだ、」
男の口からは、雨音よりも波音よりも静かな後悔が述べられた。
黙って聞いていると、静寂の中で異様に耳障りだった。
女の念が男の呟きに乗じているように思えてしまう。
目を閉じるも、白のコントラストは瞼の皮をもってしても眩しすぎる。
どこから流れ着いたか、一本の棒切れが彼女の墓の墓標となった。
時刻は引き潮、時期にこの墓も流されるであろう。
誠に残念なことだが、これは致し方がない出来事である。
海辺で狂った女のように、ただ男は咽び泣いた。
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