ふける山羊―escape goat―
2011.05.20 Fri
目が覚めた。
灰色の天井、灰色の壁、灰色の鉄格子。
白いベッドの上。
「おはよう。ようやく目が覚めたようだね」
鉄格子の向こう側に、見知らぬ男がいた。
はっきりしない思考の中で、その声だけが耳に響く。
当たりを見渡す。
灰色の天井、灰色の壁、灰色の鉄格子、白いベッド、そして手錠。
ベッドのヘッドボードと自分の左手がつながれていた。
身にまとわりつく違和感。
服は着ていない。
足が動かないのは、きっと牽引器のようなもので固定されているせいだ。
「ここは?」
「覚えがないのかい、暗殺者?」
「あんさつしゃ?」
A・S・S・A・S・S・I・N・Oと、男の口がゆっくりと動き、発せられる。
紛れもなく暗殺者だと言った。
重たい思考の中で、時間をかけてゆっくりとその意味を咀嚼する。
思い出した、確かに自分は暗殺者だ。
確かに組織の犬として組織に歯向かう者を殺した覚えがしっかりとある。
頭に鈍痛が走れば走るほど、徐々に記憶を覆い尽くす霧が晴れてくる。
人を殺した、仲間と、仲間は9人、暗殺チーム、パッショーネ。
芋蔓式でどんどん自分の身元がはっきりとしていく。
「わかったようだね、プロシュート君」
しかし、この男に見覚えはない。
何故そうと言えるか、何故ならば手繰り寄せていくその記憶の中にその男はいないからだ。
そこでようやく悟ったのだ。
自分は、捕まったのだと。
「なにが、のぞみだ?」
「何も望んじゃいないよ。ただ君が許せない、それだけだ」
男は許す、許さないなどとのたまっているが、はっきり言って身に覚えがない。
もしかしたら標的の残党なのかもしれない。
もしかしたら、いやまさか、この男が標的であるとか……そんなはずもない。
だったら、この男は誰だ。
そして、この状況は一体何なのだ。
「君はどうやら恋人がいるみたいだけど、もしも脅したら助けに来てくれるのかい?」
恋人?
いただろうか。
確かに特別な感情を抱いた人間はいたが、果たして自分とその人間がそういった仲であったかといえば否定せざるを得ない。
しかし問題はそこではなく、重要なのは、この男が自分を脅しのネタにして強請るつもりであり、しかも自分の身の周辺をよく把握している可能性があるということだ。
「さあ。強いていうなら、来るはずもねえ、だろうがな。お前が俺を暗殺者だと知ってるならわかってんだろ?」
「どうだかね」
鈍痛が、頭を貫く。
頭が痛い。
灰色の天井の灰色の格子模様が、頭上で何度も回転している。
これはきっと眩暈だ。
はて、どうしたものか、と考えてみる。
自分が一暗殺者だとして、この状況への打開策は、だといえば。
まずは口を割らないこと、そして死を受け入れること。
これ以外に他にない。
何やらこの男は自分のことをよく知っているような口ぶりであるという上に、顔も十分以上に晒してしまったのだ。
最早これまで、と少ない思考が視界を閉ざそうとした。
かちゃかちゃと金属音が鳴る。
そちらに視線を向ければ、男の手には強く握った切れ味の良さそうなナイフやその他。
この状況から考えられることはただ一つ。
「殺してやる」
死を受け入れることのみ。
――殺してやる、だと?
そんなことできもしない癖に。
だいたいなんだ、手が震えやがってる。
そんなんでただ一突きしたくらいじゃあきっと痛いだけで死ねない。
第一心臓を狙ったとしても、肋と肋のわずかな隙間にそれを刺し込む技量など持ち合わせていないと見える。
それに、ただ殺すだけで満足ならばこんあ大がかりな道具や罠が必要であっただろうか。
手足を縛る必要なんてさらさらない。
これは虚勢だろうか、そうだ、虚勢だ。
ならば、死んでたまるものか。
「――グレイトフル・デッド!」
渾身の力を持って、自分の記憶の片隅にあったその名を発した。
自分が急速に老いていくのと同時に、男も徐々にしわがれていく。
細った腕が手錠の輪をすんなりと通した。
これで件の左手は自由となった。
紫色の死臭を放つ化物を尻目に、自分の老化だけを解除する。
男は突然の出来事にただただ戸惑っていたが、きっとそのうち何が起こっているのかもわからなくなるのだろう。
いそいそと脚に取り付けられた器具を外していく。
これで右足、続いて左足も晴れて自由の身だ。
「ところで、どうして俺はこんな目にあってんだ?」
ふいに思い出し、老いに侵され続ける肉塊に問うた。
だが、勿論返事は返ってこない。
考える間もなく、次の工程にかかろうとした。
「悪魔……、悪魔め!」
しわがれた断末魔が、足元から発せられた。
この言葉が一体何を意味しているのかは分からないが、今はただそれを考える時間すらない。
化物が鉄格子のパイプをみちみちとその腕で押し曲げた。
自分はただそれを見ているだけであったが、妙に同じ腕が力んでしまった。
ようやく人一人が通れるくらいになって、俺はその化物から意識を遠のいた。
見る見るうちに男は元の綺麗な形に、しかしすでに人間ではなく、ただの肉塊と化していた。
「悪いが俺は贖罪のために死ぬのなんて御免だからな」
そう吐き捨てて、俺は灰色の壁にある灰色の扉を押しあけた。
目が覚めた。
灰色の天井、灰色の壁、灰色の鉄格子。
白いベッドの上。
「おはよう。随分と長いお目覚めだな」
鉄格子の向こう側に、よく知った男がいた。
はっきりしない思考の中で、その声だけが耳に響く。
当たりを見渡す。
灰色の天井、灰色の壁、灰色の鉄格子、白いベッド、そして手錠。
「こりゃあ、どういうことだよ。なあ、リーダー?」
暗殺者は動揺してはならない。
しかしこの時の俺は、ただ生唾を飲んで男の回答を待つほかになかった。
「捕まったそうじゃないか。それも、標的とはもっぱら関係のないただのキチ○イに、だ。つまり、わかるな」
男の目がぎらりと光った。
そのまなざしからは、決して逃れることはできない。
「再教育、という言葉を知っているか?」
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