生路・8
馬を駆る劉備のその胸元に顔を埋め、芙蓉はじっと耳をすます。
聞くのは鼓動。青年の、星の、そして自身の命の音。
父と母、楼那僧、多くの者が己を生かしてくれたのだ。
多くを託されたと思う。
受け継ぐものが確かに有る。
その夜の出会いは北斗七星が運ぶさだめであっただろう。
寄り添う淡い体温がふたつの心を近くする。
林道を北へと走る。
やがて道幅は広くなり、白馬はふいに森を抜けた。
劉備と芙蓉の行く手には月を映した広い川。劉備は手綱を強く引き、周囲をぐるり、見渡した。
「!」
松明であろうか、彼方に無数の明りを見る。次第に数が増えていき、馬のいななきと人の声とが闇に響く。
「…!」
次第に此方に迫る気配。
と、次の瞬間、青年と少女は驚愕し身をすくませた。
あれは賊だ。擦れ合う具足の音に混じって「黄夫当立」と唱える野卑な声がする。
見つかっては事だ、今すぐここを離れねば―――馬首を返して急ぎ駆け出したが、しかし。
「誰かいるのか!」
背後で叫ぶ声がした。
何たることか、馬蹄の音を耳ざとく聞いた賊の一人が仲間の騎馬を引き連れ後を追ってくるではないか!
「そこの者、止まれ、止まらんか!」
賊の怒号に怯えた芙蓉がその細い手で劉備に強く縋りつく。守らねば。託された命と共に生きてこの夜を脱けねば。青年は自己に言い聞かす。
と、耳元をヒュンとかすめた矢羽の音に劉備はぐっと息を詰めた。後方からの相次ぐ射掛け。彼は芙蓉を腕に抱えて鞍上に身を低くする。
しかし、賊の矢はついに白馬の後ろ足へと突き立った。激しい馬のいななきと共に劉備は宙に投げ出される。その胸に強く芙蓉を抱いて、彼は凍えた地に落ちた。
「手こずらせやがって」
四方を囲む黄巾賊。
劉備は体の痛みをこらえて立ち上がる。
「捕まえてみりゃこんな若僧が一人か」
「いやいや、よく見りゃ可愛い女を連れてるぜ」
「隅に置けんな、ええ青二才」
居並ぶ凶相。下卑た笑いがドッと起こる。が、数瞬ののち、一人の賊が悲鳴を上げて馬から地に転がり落ちた。
「あっ! このっ…」
劉備の右手にしなる鞭、それは油断しきった男の顔を強かに打ちのめしたのだ。
窮地にあって劉備の心はなお強い。
今や彼の命は彼一人だけのものではない。芙蓉の涙、楼那の願い、その後ろに在る多くの者の思いが彼を壮士とする。
再び長鞭が宙を舞う。ななめ手前の賊の首元を絡め取り、グンと引き落馬させていた。慌てて立ち上がるところを靖王の一閃により斬り伏せる。
青年のその思いもよらぬ反撃に黄巾賊は瞬時に顔色を変えた。
「こいつめ、よくもなめた真似を!」
「殺せ!」
怒りに吠えた賊の長刀が劉備の上に振り下ろされかけた、その時。
「待て、待て、はやまるな!」
後方より突如響いた「待った」の声。
聞き覚えがあったのだろう、賊達はみな声のした方を振り返る。
「なんだ、誰かと思えばお前は新入りの張飛」
「一体どうしたってんだ」
耳に飛び込んだ“張飛”なる名に芙蓉がハッと目を見開く。
息を切らして駆け寄ってきたその少年―――身の丈八尺、筋骨逞しい体に強い光を湛えた眼。これぞまさしく白い芙蓉花の守り人・張翼徳に他ならない。
「どうしたもこうしたもないぜ。そのお二方を今すぐ俺に渡してくれ」
「なに!? 一体誰の命令だ」
「誰の命令かって…」
実はこの俺の命令でね―――不敵な笑みを浮かべて言った張飛に賊達は語気を荒くする。
「お前のだって!?」
「ふざけるな、新入りの小僧のくせに俺達に命令しようっていうのか!」
掴みかかっていく男。次の瞬間、その身は張飛の剛腕によって宙に浮き、ズタ袋かなにかのように仲間の輪へと投げ込まれた。首の骨でも折れたのか、そのまま血を吐き絶命する。
その突然の“仲間殺し”に黄巾賊は恐慌状態に陥る。
「張飛、貴様狂ったか!」
「仲間を殺すとどうなるか知っているのだろうな! 軍規に照らして成敗してくれる、そこへなおれ!」
「そうはいかん、野良犬共に成敗される気なんぞ無い」
「なにっ、我々を野良犬だと!?」
「お前らに人間らしいのが一人でもいるのか」
少年の言に怒りをあらわにした賊が長刀でもって斬りかかる。刃先を避け、柄ごと相手の身を吊り上げてしまう張飛。悲鳴を上げて地に落ちたのを一刀両断にしていた。
続けざま、一人の首を宙に飛ばす。この光景に居合わせた賊のすべてがその顔色を失った。
「死出の手向けに聞かせてやろう。我が名は張飛、先頃滅んだ鴻家の臣だ。偽りの投降をしたのも主の仇を討たんが為。鬼畜の輩、黄魔めが、おのれら一人たりとも生かしてはおかぬぞ」
少年は虎の如くに猛り立つ。
地を蹴り、瞬時に敵との間合いを詰め、握った拳を顔面めがけ叩き込んだ。一撃で顔を潰され絶命した仲間を前に、黄巾賊は恐怖の叫びを上げていた。
手当たり次第に賊徒を殴り殺しながら張飛の胸は黒い激情に満ちていく。血反吐に赤黒く染まる手。怒りと復讐の拳だ。
すべてを失ったあの日、楼那に芙蓉を預けた張飛は単身戦場へと発った。
黄色の巾が胸の憎悪をかきたてる。
賊徒の群れに近づき、欺き、残らずその腕で屠った。
愛する者とのあまりに理不尽な別れは少年の内に狂気にも似た荒ぶる衝動をもたらす。復讐の念が彼の歩を前に進ませる。
己に誓った。言い聞かせた。あの鬼共に血の贖いをさせてやる。
その血煙のひと時を劉備と芙蓉はただ茫然と見つめていた。
地に転がった無数の骸。黄巾賊はたった一人の少年相手に文字通り手も足も出ぬまま討ち果たされたのだ。
賊の掃討を終えた張飛は「姫」と叫んで芙蓉の前に駆け寄った。
「翼徳! ああ、良かった、無事でいてくれたのですね」
「姫、ご心配をおかけしました。お許し下さい、お側を離れましたこと…」
芙蓉の足下に膝突き深く頭を垂れ、そしてから傍らに立つ青年へつと向き直る。
「…劉備殿、ですね」
初めて会った少年に突如名を呼ばれ、劉備は小さく驚いた。
「いかにも私は劉備です。しかし、何ゆえ私の名を?」
「白馬寺の楼那様からすべてを伝え聞きました。我が主をお守り下さいましたこと、張飛、この通り深く御礼申し上げる」
「あの御坊から…そうでしたか」
やはりあの方も共にお連れするべきです、今から寺に引き返して―――そう口にした劉備の前、張飛の面がどこか苦しげに強張った。
「いや…もう遅いんです、楼那様は先程お亡くなりになった」
「なんですって、」
「北斗七星のもとに姫と貴方とは居ると、信じて駆けよと俺に言い残されたんです」
愕然とし、悲痛な思いで天に輝く北斗七星を見る劉備。
袂で顔を覆った芙蓉がかすかな嗚咽を零していた。
煌めく星が運ぶさだめ。
三人の若い魂が因果の糸を紡いで手繰り寄せていく。
運命の夜に月の光はあまりに眩しく彼らの頭上へと注ぐ。
別れ際、劉備と芙蓉は互いにその名を告げ合った。
見つめ合うその一瞬に心は新たな色を知る。
儚く強い予感がある。
乾いて割れた唇に触れるひんやりとしたその感触。
朦朧とした意識の中で(まだ生きている)とぼんやり劉元起は思う。
と、ふいに口内に冷たい清水が流れ込む。
それはまさしく救いの水であっただろう。のどを流れて臓腑に染みる清らかさ。次第に意識が明確になる。
「……」
ぼんやりとした視界に人影が映った。
手元には砂利、すぐ近くには流れる川の水音が。どうやらここは川原らしい。
二、三度まばたき、人影によく目をこらす。
「あなたは…」
劉元起のかすれた声に、その男は「気づかれましたか」と返す。
大きな岩に半身をもたれさせたまま、劉元起はハッとしたように辺りを見回していたが…
「ご安心を。黄巾賊はこの近くにはおりませぬよ」
「…あの、もしやあなたが私をお助け下さったのですか?」
「たまたま通りがかったものですから」
そう言って、眼前の男は竹の水筒に栓をし帯に下げ直す。
劉元起が最後に覚えているのは幾人かの捕虜と共に黄巾賊のもとから逃げ出し夜の林道をひたすら駆けていたことだ。背後に迫る追手の気配、賊の怒号と上がる悲鳴―――そう、息は切れ足はもつれて、つまづき転んだ瞬間に(もう最期だ)と思ったのだ。
だが、確かに己は今生きている。
目の前にいるこの男が命を救ってくれたのだ。
「あ…ありがとうございます、本当にお礼のしようもございません。私は幽州琢郡の劉元起と申す者…その、貴方様のお名前は?」
「いえ、名乗るほどの者ではございません」
「貴方は命の恩人です、どうか名をお聞かせ下さい」
男の眉宇にかすかな逡巡が宿る。
やがて、彼は厳かながらよく通るその声音でもって告げてきた。
「関羽、河東の関羽と申します」
続く
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