生路・4
白馬寺。
宿房に夜の帳が下りている。
(………)
浅い眠りの淵からふいに現へと引き戻される鴻芙蓉。
夜具の中、わずかに四肢を強張らせ、一瞬にして意識を鮮明にしていた。
掛布をよけて寝台の上に身を起こす。
数刻前、不測の事態を慮った両親から楼那僧を頼っていくよう言いつけられた鴻芙蓉は、張飛と共にこの寺の門を叩いていたのだった。
「…?」
おかしい。
どこか胸につかえるような奇妙な感覚があるのだ。
それは“予感”であったのか―――彼女は急ぎ寝台を降り、上衣を羽織り身仕舞いする。
と、扉の向こう、宿房の回廊がやにわに騒がしくなった。
行き交う人々の気配。
「…翼徳、翼徳」
隣室に控えた家臣の名を呼び部屋を出る。
「翼徳?」
主の声に、少し離れた回廊の角に在った張飛が振り返った。
彼の傍らには楼那、そして白馬寺の下男。どうしたことか、みな一様に悲痛な面持ちを浮かべる。
「姫」
震えを帯びた張飛の声。
芙蓉の鼓動が早くなる。
「待ちなさい、お二人とも行ってはなりません!」
楼那の制止を振り切って鴻家の主従は馬を駆る。
「芙蓉姫、翼徳殿! いけない、戻っていらっしゃい!」
遠ざかっていく彼らの背を苦渋の思いで見送る楼那。
少年と少女は生まれ育った彼らの家を目指してひたすらに走る。
出立前、寺に残るよう再三告げた張飛に対し、芙蓉はあくまで「共に行きます」と言い切った。
悲壮なまでの主の願いを無碍には出来ぬ張飛である。
だが、今、彼らの胸は重く痛い。
(お父様、お母様)
(爺ちゃん、旦那様、奥様)
願い、祈る。
一縷の望みをかけてみる。
やがて彼方に悲鳴と怒号、激しい馬蹄の音が響き、逃げ惑う人々の波が此方に押し寄せるのが見えた。
遠くの空が赤くなる。
あれは、そう、鴻家の邸と領民達の集落がある方向だ。
燃える故郷を茫然と見遣る芙蓉、張飛。
あまりの事に声のひとつも上げるでない。
父は? 母は?
年老いた祖父は今どこに?
「…あっ」
傷ついた人の群れの中、鴻家の家人の姿を見止めて張飛が叫ぶ。
芙蓉を抱え馬を降り、「梁さん」と呼びかけ急ぎ駆け寄った。
「おお…姫、翼徳!」
ハッとしたように目を見開き、煤けた頬を涙で濡らす梁家人。
その背には大小無数の刀傷。流れる血潮が半身を朱に染めている。
「姫、無念です、旦那様は賊と戦いご落命…」
張飛と二人で地に膝ついた梁を支える鴻芙蓉。
その白い手がビクと小さく慄いた。
「奥様も賊の手にかかり…ああ、姫、お許し下さい、お守り出来ませんでした、旦那様も奥様も…私は」
「そんな、そんな……しっかりしてくれ、なぁ梁さん、」
梁の呼吸が弱くなる。
芙蓉と張飛、支える手から二人に伝わる虚ろな消失の感触。
聞いていた。命が潰えていく音を。
「梁さん、俺の爺ちゃんは、」
「死んだ、張基さんも死んだ、みんなあいつらに殺された」
無念だ、無念だ、姫、翼徳、
振り絞るように言って、それきりこと切れた。
その日、鴻芙蓉と張飛は“幸福な子供の時”を失った。
優しい日々は炎の彼方へと去った。
奪われたもの。
戻らぬ者。
世界は永遠でなかった。
漆黒の闇に憎悪と血の赤が滲む。
暴走し、肥大し、人と大地を蹂躙していく黄匪の牙。
絶望の淵を彷徨う心に星の光は届かない。
続く
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