暁光・4







孫呉の仕掛けたこの美人計を諸葛亮が如何様にして覆したか―――俊英たる若き軍師は“劉備の孫家への婿入り”という、大胆極まる戦法に打って出たのであった。



長江を東へと進む、紅燈で飾りつけられた豪奢な十隻の船団。
南徐の街に降り立った婿入りの一行は、目抜き通りでお祭り騒ぎの様相で婚儀の品を買い求めた。
兵達は諸葛亮の策に従って道行く街の人々に銭と餅とをばらまきながら派手に吹聴してみせる。

「皆の衆、劉皇叔と呉妹様とが夫婦におなりあそばすぞ!」
「こんなめでたい話はない! さあさあ皆、遠慮はいらん、皇叔よりの引出物を受けてくれ!」

人々の間にワッと喜びの声が湧く。
護衛の将の趙雲が楽隊に賑やかな祝いの曲を奏でさせれば、目抜き通りは「何事か」と表に出てきた呉の民達でアッという間に溢れかえった。
果たして、劉備の到着より一刻も経たぬ内に、南徐の城下は華やかな祝賀の空気に包まれる。

次に一行が訪問したのは周瑜の舅に当たる喬国老の屋敷であった。
実直な老人は劉備の優れた風采、立ち居振る舞いにひどく感じ入り、相好を崩して繰り返し祝辞の言葉を述べる。
喬国老は宿舎へ向かう劉備を見送ってすぐに、いそいそと呉国太のもとへと足を運んだ。


満面の笑みの喬国老に「この度のご結婚まことにおめでとうございます」などと言われても、呉国太――呉栄には何が何やらサッパリである。
喬国老から己の娘と劉備との結婚の件を聞かされた彼女は瞬時にその顔色を失った。すぐさま侍女を市街へと遣り、事の次第を確かめさせる。
戻った侍女が「街中どこも大賑わい、誰一人として知らぬ者などございません」と報告したからもう大変だ。

「権をお呼び! 今すぐに!」




まなじりを吊り上げた母、その怒りの形相と声に、孫権は思わず身を縮めてしまう。
私に黙って尚香の婚儀を推し進めるとは何事か、そなたはこの母をないがしろにしようというか―――そうどやされれば彼には返す言葉も無い。
呉栄は人並み外れた賢婦ではあったが、しかし、己の子…父親の顔を知らずに育った不憫な娘のこととなると、やはりその言動が盲目的なものとなるのは避け難かった。
長子・孫策、次子・孫権を厳しく教育した反動か、年の離れた末子の尚香を過剰に甘やかしてきたきらいが呉栄にはある。
事実、孫尚香は十七の年になるまで女の仕事を何ひとつ知らないままに過ごしてきた。娘可愛さのあまり呉栄が強く口出ししなかった結果、桑畑に足を踏み入れたことも糸車を回し針を手にしたことさえも無いまま大きくなったのだ。
果たして“孫尚香”という特異な存在を構築したものが一体なんであったのか。それは若くして非業の死を遂げた父親と兄の影であり、また母親の愚かで哀しい愛である。陰陽ふたつの性を備えた者のさだめは歪で過酷なものだった。




その後、甘露寺における呉栄と劉備の対面を経て、劉家と孫家の婚姻は正式のものと相成った。
周瑜と孫権が謀った劉備暗殺の計は一転、国を挙げての慶事となってしまったのだ。

呉栄は劉備をいたく気に入り、甘露寺の宴は夕闇が濃くなるにつれ華やかさを増していく。
勧められるまま呉の群臣の杯を飲み干す劉備。その目元にはかすかな紅が刷かれていたが、彼の心はあくまでも冷静だった。
―――ややあって、彼は呉栄に「夜風に当たって酔いを醒まして参ります」と告げ、護衛の趙雲を伴い甘露寺の庭へと降りた。




雲間にかすかに見え隠れする白い月。
そんな月を見上げたまま身じろぎもせぬ劉備の衣を静かに撫ぜてゆく秋風。
白く儚い月光の中に、彼はふと鴻芙蓉の微笑みを見る。

(玄徳様)

懐かしい声を聞いた気がした。
失った今、痛いほどに劉備は思う。
幸せであっただろうか、
一体どれほどのことをしてやれていたのだろうか、
なぜ、彼女と娘達の最期の瞬間、側にいることが叶わなかった?
劉備の心に走った亀裂。それは時の流れと共に虚ろで深い深淵へと変わる。

(………)

結婚。
十七歳の呉の姫君。
他人事のように思えた。冷えゆくばかりの心に何もかもすべて空しく響く。

「……」

沈黙を守る主の背中を見つめながら、趙雲の心もまた無音の軋みを上げていた。
彼の瞳にも、やはり月光と共に鴻芙蓉の白いかんばせが映る。
ビクビクとわずかに痙攣し始める右手。指先に残る“あの瞬間”の罪深い感触が、日々趙雲を苦しめるのだ。
この一年、ほんのわずかの安らぎすらも感じないままに過ごした。その涼やかな面の下、趙雲の魂は罪に怯えて歪みゆく。芙蓉に、劉備に、許してくれとひたすらに心の内で詫びながらも、彼はなお理不尽な怒りを捨てきれないでいた。

と、劉備の視線が庭先に置かれたひとつの石へと向けられる。
幅は六尺、高さは腰に届くか届かないかの大きな飾り石。何を思ったか、劉備はその石につと歩み寄り、すらりと白刃を抜いた。
ハッとして一歩を踏み出した趙雲の眼前、劉備の剣が石へと振り下ろされていく。
漆黒の空気にキィンと鋭い衝撃が走った。

「我が君、」

趙雲の切れ長の目がわずかに丸くなる。
劉備の剣は折れることも弾かれることもなく、見事に石を両断していたのだった。

「……斬れた」

感慨深げにつぶやく劉備。
主の思惑を解せぬままに、黙して立ちすくむ趙雲。


ふと、夜の雲間が大きく晴れて、月光がまぶしい煌めきを二人の頭上へと注ぐ。
数瞬ののち、沈黙の庭に新たな足音が響いた。

「皇叔はその石に何か恨みがお有りですか」

劉備は声のした方向へと向き直る。

「…貴方は、」

月明かりに照らされ輝く黄金の髪。
青い炎を湛えたその双眸は闇の中に在ってなお宝玉の如くに見ゆる。
劉備の脳裏にちょうど一年前の今頃、赤壁の直前に呉の陣営で出会った“彼”とのひとときが甦る。

「貴方はあの時の…」
「憶えていて下さいました?」
「ええ。その節は慌ただしくしておりまして…」

紅の具足を纏う見目麗しい武人に向けられた劉備の瞳、そこにはわずかに惑いが滲む。

(随分とまた年若い)

その美貌は鋭く大人びているものの、どこか幼い少女のようにも見て取れる。

(いや、これは…)

もしやの思いに囚われた劉備の目の前で“彼”はいつかのように拱手し頭を垂れていた。

「改めまして、劉皇叔…私は孫尚香、呉主・孫権の妹にございます」







続く




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