日蝕・2
◆魏延の息子(220年生)
◆馬超の娘(219年生)
◆馬承(220年生)
漢中郡・南鄭。
総督府の奥庭に穏やかな午後の日射しが降り注ぐ。
開け放された執務室の窓向こうから聞こえてくる幼い子供の笑い声に、魏延はふと筆を握った手を止めた。
腰を上げ、凝った首周りを手で揉みほぐしつつ、回廊に出て庭先を見やる。
芭山の優美な景観をそっくりそのまま切り取ってきたかのような苑の中、二人の男児が楽しげにじゃれている。
片や皇帝の甥、劉林。
片や漢中太守・魏文長が長男、魏攸。
幼なじみの両者の仲はこの上なく親密で、その温情、交わりの深さは、まことの兄弟のそれにも等しいものがある。
皇宮の、雅だがどこか息の詰まるような空気から解放された劉林の顔は、晴れ晴れとした子供らしい伸びやかさに満ちていた。
(あの方もご幼少のみぎりにはかように笑顔であられたろうか)
ふと魏延の脳裏によみがえる、亡き劉封の寂しげな眼差し。
追憶が胸を苦しくさせる。
かつて、長沙の戦いで先帝・劉備に仕官した折から、魏延と劉封とは公私に渡って親しく交わる仲だった。
轡を並べて戦陣を駆け、明月のもと杯を交わし、他愛ない語りに興じ笑う。
思い出は常に儚く美しい。
劉備と劉封―――愛して仕えた二人の死が共に血と涙の内にあったことを思い出すにつれ、魏延の心は乱れ、澱んだ。
(貴方様の上には、どうか亡き父君のそれまでも多幸、果報があるように)
息子と共に屈託なく笑う劉林の姿に、そう祈らずにはいられない。
と、欄干に寄りかかってボンヤリとこちらを見ている魏延の姿に気がついた魏攸―――子犬のような弾む足取りで駆け寄ってきたかと思うと、父親の袖を掴んでグイグイと引っ張り出した。
うながされ、欄干を跨いで陽光溢れる庭先へ出る。
幼子の目線に合わせて屈み込み、しばし劉林と歓談していたところ、後ろに回った魏攸が父の広い背に飛びついてきた。
おぉ…と軽くよろめく魏延の胸元に、「僕もやる!」と言わんばかりの勢いで飛びつく劉林。
前後にイタズラ坊主をぶら下げた魏延は、そのままグルンと体をひねる。このなんとも豪快な回転ブランコに、劉林と魏攸はキャーキャーワーワー歓声を上げて大はしゃぎである。
しばらくグルグル回っていた…が、さすがに目眩を覚えてしまい、子供らを抱えて地べたに腰を下ろすのだった。
「父上、グルグル、もう一回!」
「魏延将軍、もう一回!」
キャッキャと笑って催促してくるのに「しばしお待ちを」と苦笑いで返したところ、事も有ろうに前後からくすぐりをかけてきたではないか!…この強烈な奇襲攻撃に、蜀漢随一の勇将もたまらずワハハと笑い出してしまった。
大笑いする魏延の様に、二人のイタズラ坊主達もつられて爆笑し始める。
くすぐりくすぐられ、最後には魏延が涙目で笑い転げつつ「降参、降参」と白旗を掲げ決着はついた。
地に足を投げ出したまま、ハァと大きく息をつく。腹の上にズッシリと子供二人の重みを受けたまま、何気なく舘へと目をやった。
「…?」
回廊に、人影がひとつ、見て取れる。
陽光の中、目をこらした。
「……あっ、おぬし、」
馬岱ではないか!―――魏延の声が跳ね上がる。
回廊の薄暗がりに立つ長身は、確かに馬伯瞻その人であった。
腹の上から子供らを下ろし、衣服をはたいて足早に歩み寄る。
「久しいな…いつ帰っていたのだ?」
「今朝だよ」
「今朝!」
「久しぶりだな、本当に」
どちらからともなく手を伸ばす。
固い握手が交わされていた。
蜀漢平北将軍として周辺異民族の鎮圧慰撫に当たる馬岱。
西蜀の遥か北、西涼と隣り合う鮮卑の地に協定を持ちかけに赴いたのが、もう三ヶ月も前のことである。
遠方より無事の帰還を果たした同僚に、魏延は手ずから蜀の茶を煮てふるまった。
茶器を手にして一気にあおり、飲み干す馬岱。
そのままじっと、ひどく感慨深げな眼差しを魏延へと向けてくる。
「どうだ、鮮卑の動向は」
「軻比能の王に会ってな……もう一杯もらえるか」
「おお」
「次期北伐への参戦と我が国との同盟を取りつけてきたよ」
「なんと!」
「曹操めの尖兵にな、身内を幾人も殺されているらしい。賊国曹魏への報復を果たさぬ内は心の憂さは晴れはせぬ、とな……ハハハ、俺とは随分と気が合った、ハハハハハ」
「……」
馬岱の一族が曹操の手にかかりほぼ滅亡へと追いやられた過去を思うにつけ、魏延はやるせない気持ちでいっぱいになり、かける言葉をなくしてしまう。
ただ、大任を全うして戻った彼を、無骨ながらも精一杯にねぎらった。
「見ていたよ」
「え?」
「ご子息と殿下と…フフ、子鬼二人にかかっては天下の大将軍も形無しだ」
「よしてくれ、おぬしも人の悪い…」
気恥ずかしさからどこか落ち着かぬ様子になる魏延に、馬岱はひとしきり口中で笑いを噛み殺す。
「いやな、いっそ羨ましいとすら思うよ、俺は。子供はあの通り、元気が良過ぎる位でちょうど良い」
「子供といえば、宅のお二方はどうだ。三月ぶりの顔合わせだ、さぞ喜んでいただろう」
「喜んで…? アッハハ、そんな殊勝なタマか、あやつらが」
「?」
「無論、帰ってすぐに顔を見に行ったさ。それがどうだ、あのガキめらが…愛想のひとつも振り撒きやしない」
「お、おい…」
「駄目だよ、あれは」
まるで気持ちが通じないんだ。
なげやりな口調でそうこぼす馬岱に、魏延は戸惑いを隠せない。
亡き馬超には、入蜀後に娶った北方月氏の王女との間にもうけた一女一男があった。
馬超の遺言によって馬家の家督を相続し、名実共に宗主となった馬岱。自動的に従兄の遺児の養父となった…はいいのだが、この二人の子供との折り合いがどうにもうまくいっていない。
姉の馬涼姫、弟の馬承―――馬岱は幼い姉弟に対し、故郷・西涼の文化を継承しようと常日頃心を砕いてきたのだが、肝心の子供らの反応は、なんともそっけないものであった。
生まれた時から漢人の文化の中に在って育った姉弟は、西涼の文化慣習にまるで関心を示さない。
今朝方、長旅から疲れた体を引きずって戻った馬岱に対しても、いつもどおりの淡白な応対のみ見せた。
「長いこと留守にしていたね、私がいなくて寂しかったかい」
冷静に考えればかなり情けない問いかけであるのだが、それでも久々に会った肉親を前に、言わずにはいられなかった。
が、ここでの姉弟の反応は、まさかの“無言”。
落胆した馬岱は馬承に言う。
「承や、そなたもそろそろ乗馬を始めていい頃だろう。どうだ、次の休みに遠乗りにでも行かないか」
その言葉に、「嫌です」と言わんばかりに頭を左右に振る馬承。
どこか陰気でひきこもりの気のある少年は、養父への挨拶もそこそこに自室へと引っ込んでしまった。
世話役の侍女とのままごと遊びの方がよっぽど性に合うらしい―――馬岱は頭を抱えたくなった。
これが我が従兄の、あの雄々しく美しかった錦馬超の血をひく男子であろうとは!
西涼の男が乗馬に興味を示さないなど世も末だ…必死になって苛立ちを抑え、姉娘へと向き直る。
「涼姫よ、娘よ、離れていてもそなたを思わぬ日はなかったよ。どれ、よく顔を見せてくれ」
少女を膝へと抱き上げる。
父親ゆずりの青い瞳と波打つ金髪、輝く美貌。加えてその表情の乏しさが、良くも悪くも人形のようだ。
「娘よ、故郷の歌を歌っておくれ。旅の疲れを癒やしておくれ」
養父のこのささやかな願いには、なんと「わかりません」との凄まじい返答が待っていた。
「わからない…? 三月前まであんなによく歌ってくれていたじゃあないか、わからないとはどういう事だね?」
「忘れたのです。ちっとも歌わないから、私、忘れてしまったんです」
見たこともない西涼の地に郷愁など抱けるはずもない。
幼い少女の頭の中は、漢中市井の流行りの歌謡でいっぱいだった。
また、馬涼姫は、胡風の衣はもう着たくない、侍女達と同じ漢服が欲しいとしきりに駄々をこね始めた。
「それと、私、染め粉が欲しい。この髪を黒に染めたいのです」
そのひと言を聞いた瞬間、馬岱の面から表情が消えた。
娘を抱えた手がゆるむ。馬涼姫は養父の膝からスルリと床に降り立った。
無言の馬岱を一瞥する馬涼姫―――お付きの侍女に駆け寄ると、そのまま部屋を後にした。
「……」
一人残された馬岱の胸中に、孤独と焦燥が渦を巻く。
みな、己を遺して先立った。
孟起兄、伯父上、休、鉄、
会いたい
会ってもう一度声が聞きたい
なぜ死んだ?
殺されたのだ、あの賊徒めに。憎い仇に、曹操に一矢報いることも叶わずに、いたずらに日は過ぎていく。
その曹操も、病を得、逝った。
行き場をなくした憤り、復讐の念は、馬岱の内を黒炎となって駆け巡る。
(孟起兄、無念よな…あの子供らは決して我らの思いを解すまい)
もはや己の生きる理由は、北伐と曹氏の断絶、ただそれのみだ。
(たとえ俺が志半ばに倒れても、あの子が、承が、俺に代わって剣をとることなど無いのだろう)
馬家の北伐はこの馬岱の代でお終いだ。
やるせなさを通り越し、不思議と笑いがこみ上げてくる。
終わりだ
おしまいだよ孟起兄
何もかもこの俺で終わるんだ
湯釜と柄杓の水気を払い、茶器を片していた魏延であったが、ふと背後に気配を感じて振り返る。
一瞬の後には、馬岱の腕に、その上体を抱きすくめられていた。
「!?」
魏延自身も八尺という長身を誇っているが、馬岱はまた、その魏延よりも幾分か上背がある。
首筋に鼻先を埋められて、背に、腰に、強靭な腕が絡みついてきた。
「伯瞻っ…お、おい…!」
動揺し、闇雲に体をひねった魏延の足先が卓を蹴る。
湯釜のふちから落ちた柄杓が、カランと乾いた音を立てた。
続く
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