落日・14(終)
建興七年三月。
先年、二度の北伐を経て、対魏の前線・漢中はひとときの平穏の内にあった。
漢中総督府の奥院、丞相府のその一室で、魏延は諸葛亮より委任された書類の決済を急ぐ。
日が中天にかかる頃、最後の一枚に署名し印をした。
午の正刻を告げる時報の太鼓を聞きながら、足早に廊下を進み門を出た。
待たせておいた自家の馬車へと乗り込んで帰途につく。
(子龍…)
車体の振動に揺られつつ、魏延は物思いにふける。
年明けから趙雲は病の床に伏していた。
容態は日に日に悪くなっていった。
長年に渡る戦の労苦が一気に肉体を蝕み、病に抗う体力、気力を削いでいく。
魏延は漢中全土の名医という名医を手配し趙雲を診させた。五斗米道の高度な薬学医術を備えた道士。彼らの処方する薬湯は、衰えていく趙雲の命をどうにかこうにか現世に繋ぎ留めていた。
自邸に戻り、沐浴と着替えを急ぎ済ませて、趙雲の邸宅に向かい愛馬を駆った。
趙家の門前―――馴染みの使用人達と道衣の医師の姿が見える。彼らは魏延を見て取ると、黙って深く拝礼をした。
彼らの沈んだ面持ちに魏延は焦燥を覚える。
「どうだ、趙雲殿の容態は」
医師に問う。
その声はかすかに震えを帯びていた。
目線を落とし、静かにかぶりを振る医師に、魏延の鼓動が跳ね上がる。
勝手知ったる趙家の廊下を奥へと進む。早足で、ほとんど走るかのように。
「子龍!」
部屋の扉を押し開く。
寝台の傍ら、病臥した父を見守る十三歳の趙統と十一歳の趙広が、無言のままに振り向いた。
「…お父上は、いかが、」
整わぬ息のまま問う魏延に向かい、趙統が言う。
「朝に薬を飲みました。二刻前から眠りが深い、揺すっても目を覚ましません」
苦しげに歪む魏延の面。
震える足で枕元へと歩み寄る。
趙雲の白い目蓋は動かない。唇も白い。頬も、首も、胸元も、すべて。
強靭な筋力を誇った腕も今は細い。
痩せた趙雲の手を取って、魏延は床に膝をついた。強く握って揺さぶってみる。応えは無い。
「………」
幼いながらも二人の間にあるものを敏感に感じ取ったのだろう、趙統と趙広は魏延の背に向け黙礼し、連れ立って部屋を後にした。
趙雲の手を握り、その場にうずくまる魏延。
静けさだけがそこにある。
きつく目を閉じ、顔を伏せ、友のかすかな息を聞く。
どれだけの時間、彼はそうしていただろう? 長いような、短いような――――次第に五感が曖昧になる。
「………」
室内がふいに明るくなった。
窓の向こうが白くまぶしく輝いている。
「文長」
魏延はハッと面を上げた。
「…子龍?」
握るその手に力が戻るのを感じる。
己の眼前、趙雲が、その目をうっすら開けていた。
魏延の体を歓喜が走る。
「子龍!」
思わず立ってのぞき込む。視線が合った。穏やかで深い瞳の色だ。
「良かった、子龍、目が覚めたのか」
「文長……今は何刻だ?」
「昼を回った、貴方は朝からずっと眠っていたようだ」
良かった、良かったと繰り返す魏延に、趙雲は小さな笑みを向けた。
顔色が良くなっている。
肌に、目に、生気が戻りつつあった。
と、寝台の上に身を起こそうとする趙雲―――魏延は両手を肩に回して支えてやった。
「…明るいな」
「ああ、先程から急に日射しが強くなってきたようで…どうする、目に障るなら戸を閉めようか?」
「いや、いい、そのままでいい……なぁ文長、」
「ん?」
「外に出たいな。散歩がしたい」
「外に? でも、」
「連れていってくれ。な、頼む」
「…わかった、わかったよ、子龍」
漢中の地に春の息吹が近づいている。
趙雲は秦嶺山の彼方に広がる蒼穹を遥かに望む。
青い。
透き通るような青だった。
「寒くはないか?」
己を抱き支えながら馬の手綱を操る魏延。その呼びかけに、「大丈夫だ」と大きく頷いて見せた。
穏やかな午後の日射しが二人の上に降り注ぐ。
季節は巡る。
冬から春へ移りゆく。
趙雲は見る。
野の花、畦道、川のせせらぎ、きらめく水面、緑が強くなり出した峰。
木漏れ日の中に彼は見る。忘れえぬかの人の面影を。
吹き抜ける風のその一瞬に声を聞く。
(玄徳様)
子龍、と呼ぶ声。
優しい声だ。
共に過ごした奇跡のような日々を思う。
劉備を思う。思い続ける。
「文長、下ろしてくれないか。少しそこらを歩きたい」
魏延の手を取り鞍を下り、その足で地を踏みしめる。
半身を支えられながら小高い丘の上へと登る。
豊かに広がる漢中の野。
美しい街、人々の顔。
すべて覚えておこうと思う。
丘の上、その場に腰を落ち着けて、二人は語り合っていた。
これまでの事、これからの事、故郷の事、家族の事、劉備との懐かしい記憶、それから…
「……」
ふいに魏延の声が詰まる。
趙雲はうつむく友のその顔を見た。
「文長」
「………」
「どうした、文長」
震える両肩。
魏延の頬を濡らす涙。
「文長…」
「…駄目だ、駄目だよ、子龍、駄目だ」
幼子のようにしゃくり上げ、途切れ途切れに彼は言う。
「嫌だ、置いていかないでくれ。俺は貴方がいなくては……俺は、」
「文長…」
趙雲は泣きじゃくる魏延に向き直り、その袖で滂沱の涙を拭い取る。
止まらない。拭いても拭いても零れ出る。
「子龍、嫌だ、一人になるのは嫌なんだ。行かないでくれ、頼む、頼む」
「魏文長。大丈夫だ。悲しいことなど何もない、お前は一人にはならない。馬岱も呉懿も王平も、姜維も丞相も、みんないる。決して一人などではないぞ」
「違う、子龍、貴方は他のみんなとは違う。俺には、俺にとって貴方は…」
魏延は趙雲の痩せた胸へとすがる。
「苦しいよ。つらい、つらいんだ。何でも出来ると思っていた。俺に出来ない事など無いと。でも違った。苦しい。時々怖いくらいなんだ」
「自信を持て、魏文長。お前は強い、心も体も誰より強い男だろう」
「自分でもそう思っていた。でも違うんだ、俺は思い上がっていた。天下の乱れを正そうと、戦ばかりのこの世を変えてみせようと……愚かだ、俺は身の程知らずの愚か者だよ」
「違う、文長、違う」
「玄徳様がいてくれたから、漢升殿が、貴方が側にいてくれたから、思い上がっていられたんだ。でも、駄目だ、みんな…玄徳様にも漢升殿にももう会えない…つらいよ、俺には無理なんだ」
しゃくりあげる魏延の肩を強く抱く。
趙雲は伝えようとする。
伝わって欲しいと、受け継いで欲しいと、心の底から今、願う。
「違う、文長、愚かなことなど何もない。お前は愚か者じゃあない。いつかはこの戦も終わる。太平の世がきっと来る。築くのはお前だ。お前と、丞相、みんなで築き上げるんだ。愚かな夢か? 違うだろう」
「………そうだ、愚かな夢なんかじゃない」
「玄徳様も黄忠殿も、みなが願ってきたのだろう。太平の世は、仁の世は、幻などでは決してない。心を繋げば必ず成し遂げられるだろう。信じろ文長、自分を信じろ、いいな」
「……わかった、子龍、わかったよ」
「大丈夫だよ。お前は出来る。きっとな」
涙をこぼして何度も何度も頷く魏延。
落ちた雫が日射しの中にきらめいている。
理想は消えない。
志は途切れない。
願いは受け継がれたのだ。
夕陽が漢中の地を鮮やかな緋色に染めていく。
趙家へ友を送り届けた魏延。力を失い始めた体を寝台にそっと横たえた。
己をまぶしげに見上げてくるその眼差しに、こらえた涙が再び零れそうになる。
「ありがとう、世話をかけたな」
「いいんだ、俺の方こそ今日は…」
言いかけ、そしてふと口ごもる。
数瞬ののち、魏延はパッとその面に明るい笑みを浮かべ、言った。
「なあ子龍、明日、芭山のふもとの山荘へ行かないか?」
「芭山に?」
「ああ。貴方はまだあの山荘へ泊まったことがないだろう? ご子息達も一緒に連れていこうじゃないか。な、いいだろう、行こうよ」
「そうか…そうだな、そうしよう。ハハ、俄然楽しみになってきた」
「だろ? 体ひとつで行けばいいんだ、気楽なものさ。明日の朝、そうだな……辰の正刻、迎えにくるよ。今夜はゆっくり休んでくれ」
「わかった。ありがとう文長、楽しみにしているよ」
「きっとだぞ、子龍。きっと」
「ああ、きっとな」
趙雲の肩に掛布を引き上げ、名残惜しげに部屋を後にする魏延。
幾度か、彼は振り返る。
笑顔を向けて小さくその手を振ってくる。
趙雲も笑って手を振り、見送った。
その夜はひどく穏やかだった。
疼き続けた臓腑もすべて軽くなった。
苦しみ、痛みは、今はもうどこにも感じない。
趙雲は思う。
多くのことを、人を、涙を、別れを、愛を。
最後に安らぎだけ残る。
射し込む朝日のきらめきを見た。
自身の最後の鼓動を聞く。
視界のすべてがまぶしい光に満たされる。
趙雲は光に溶ける。
輝きの彼方、求め続けた楽園を見る。
落日は一巡し再び蒼穹へと臨む。
光は確かな輪郭を得、新たな時代へと降りた。
終
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