落日・13
劉備の死は趙雲の心身に著しい変容をもたらした。
章武三年四月二十四日の“その別れ”から三ヶ月と経たぬ間に頭髪はすべて白銀となり、端正な造りの顔も一気に老け込んでしまった。
五十路に届かぬ壮年であるにも関わらず、趙雲はその容姿がほとんど六十代の老人のそれになっていた。
内面も言動も大きく変わった。
それまではどちらかといえば口数の少ない部類であったものが、どうしたことか、異様に軽口が多くなってきた。
なにかにつけて冗談を飛ばすようになり、諸葛亮や魏延らは趙雲の思いもよらぬ振る舞いに度々その目を丸くした。
(忘れようとしているのか)
容姿も中身も別人のように変わった友人を前に、魏延はひっそりそんな事を思う。
合っているとも、また間違っているとも言えないだろう。
おそらくは、劉備を失ったことで、趙雲子龍の人生は否応なしにひとつの区切りを迎えたのだ。
それは言い方を変えれば、“一人の男の死”であったろう。
それまでの趙雲子龍は死んだのだ。
体も心も大きく変えて、劉備を亡くしたその悲しみから逃避した。傷ついた魂が壊れ、砕けてしまわぬよう、生き方すらも変えたのだ。
魏延はそれを悲しい事とは思わない。
間違った事とも思わない。
趙雲にとって生きる理由のすべてが劉備であった事を痛い位に知っている。心で理解しているからだ。
「この老いぼれめ、家に帰って茶でもすすって寝ておいで!」
ギラギラ照りつける太陽の下、極彩色の甲冑をまとった女が声高に言い放つ。
南蛮王・孟獲の妻である祝融と対峙した趙雲は、彼女の罵声に「なにっ」と目を剥き背後の魏延を顧みた。
「老いぼれ? あ奴め、今この私に老いぼれと言ったのか?」
魏延はギョッとし、苦しい笑みを浮かべて言った。
「いや、まぁ……な、なんとまぁ不躾なことを言う奴だろう! こら駝鳥夫人、我が漢の勇将・趙子龍を老いぼれ呼ばわりしようというか!」
「うむ、おのれ、そこを動くな駝鳥夫人、この趙雲が相手になるぞ!」
「あっ!? ちょっ、子龍、」
単騎で駆け出す趙雲に、魏延が慌てて追いすがる。
この様を後方で見ていた馬岱が「何してるんだ、戻って来い」と声を張り上げ叫んだ―――が、時すでに遅く、二人は祝融を追って鬱蒼とした樹海の中へと消えてしまった。
「………」
ポカンとその場に佇む馬岱。
ほどなくして、木々の向こうから激しい馬蹄と野獣の咆哮が響いてきた。
「…やっぱり猛獣部隊がいたか」
馬岱は思わずため息をつく。
と、茂みの中から趙雲と魏延がワーワー言いつつ飛び出してきた。二人の後から何十頭もの獅子や豹らが次々飛び出し、こちらに向かって駆けてくる。
「…っ!…だから言ったじゃないか、バカーッ!」
バカ、バカ、バカと連呼しつつ、馬岱はバッと方向転換、自陣に向けて走り出した。
追いついてきた趙雲、魏延と並走しつつ、彼はギャンギャン吠えたてる。
「何してるんだ二人共、深追いするなと丞相からも言われてたのにっ!」
「だってなぁ、あの駝鳥夫人が私のことを老いぼれなどと言うものだから!」
「そうそう、まったく失礼な駝鳥だよ!」
「駝鳥も何もっ…どうするんだよこの猛獣は!?」
「どうしようなぁ!?」
「どうしよう!?」
「…バカーッ!!」
灼熱の蛮地に響く馬岱の叫び。
三人は猛獣部隊の追跡からひたすら逃げて駆け回った。
十五で戦袍を纏う。
劉備と出会い愛を知る。
鴻芙蓉、孫尚香、罪に怯える、共鳴を得る。
玲綺、夏侯蓮、その青春を胸に刻む。
関羽、張飛、業の深さと人の縁の不可思議を思い知る。
魏延、諸葛亮、共に志を継ぐ。
まだ見ぬ世界を目指し、歩く。
そこにはきっと求めて止まぬかの人が在る。
建興五年三月。
漢中への出立の朝、趙雲は一人、朝もやにけぶる成都の昭烈帝廟へと参る。
祠堂の中、石造りの床にその膝を突き礼拝を繰り返す。
万感の思いがあった。
その胸中で劉備に多くを語りかけ、また問い、最後に変わらぬ愛の言葉を捧ぐ。
愛している。
十五の時から何も変わってなどいない。
貴方は俺のすべてだと、
願う心を失わないと、自らに誓い、廟を発つ。
朝もやに射す幾筋もの眩しい陽の光。
石畳の上を門へと向かっていた趙雲は、ふと、前方に人影をひとつ見て取った。
朝日のきらめきの中、目をこらす。
「…貴方は、」
歩みを止めた趙雲に、その人影―――夏侯蘭は静かにその頭を下げた。
続けて趙雲も慇懃な礼を返す。
夏侯蘭。今や皇族として都安侯の爵位を得、皇宮に住まう雲上人だ。
「こちらにおいでになるであろうと、そのように思っておりました」
抑えたような声音でもって言う夏侯蘭。
眼前の趙雲をじっと見る。
白い髪、皺を刻んだ端正な顔。
趙雲は五十一歳に、夏侯蘭は四十七歳になっていた。
「御武運を祈ります、趙将軍。くれぐれもお体いとわれますように」
夏侯蘭のその言に、趙雲は改めて深く頭を下げる。
「行ってまいります。都安侯様、后母様ともに御多幸お祈り申し上げます」
趙雲と夏侯蘭。
遥か彼方、常山真定の故郷の村で、幼い頃から共に在った。
十五と十一で別れた。
十七年の歳月を経て、紅蓮の博望坡で再び会った。
劉備のもとで共に数多の戦場を駆けた。
だが趙雲は、あえてこの幼なじみを避けてきた。昔のように近しくなれば、己が彼の枷となるのではないか―――そんな思いに駆られたからだ。
趙雲の内にも夏侯蘭の内にも、言葉にならない多くの思いがあったのだ。
ただ、それを伝える術に、機会に、欠けていた。
趙雲のそのあまりに短い子供の時代を夏侯蘭は知っている。共有し、共に生きたのだ。
二人は今、故郷の山を、川を、人々を、目蓋の裏に鮮明に描き出す。
懐かしい、優しいあの日々を、今もはっきりと覚えている。
(趙子龍、あなたを忘れたことはなかった)
夏侯蘭は思う。
だが、今、己の横をすり抜けて趙雲は行く。
遠い戦の庭へと向かう。
言わねば。
伝えねば。
ずっとずっと思っていた、私は貴方に伝えたかった―――趙子龍!
「…趙雲さん!」
夏侯蘭が振り向きざまに呼ぶ声に、趙雲はハッとなって歩みを止めた。
朝もやは晴れる。
まぶしい光が降り注ぐ。
「………」
趙雲は幼なじみに向き直る。
夏侯蘭の頬を流れるその涙。
瞬間、郷愁が、永遠の友愛に昇華する。
「趙雲さん、貴方を忘れたことはなかった。会えて良かった。ありがとう、どうか気をつけて。貴方と、私と、きっとまたお会い出来ますね」
二人の時が遠いあの日に巻き戻る。
常山の青い空を見る。
深い安らぎの中、趙雲は微笑んだ。
手を伸ばし、夏侯蘭の涙を拭い、肩を抱く。
「ありがとう、夏侯蘭。私もだ。君を忘れたことはなかった。また会おう、戦を終えて戻ってくるよ。そうしたらまた話をしよう、昔のように君とたくさん話をしよう」
行ってくるよ、どうか達者で、夏侯蘭―――そう言い残し、趙雲は再び歩み出す。
石畳の向こう、朝日の中に、その背が溶けて消えていった。
今生の別れであると知る。
夏侯蘭のその頬を、涙の粒が後から後から伝って落ちた。
永訣の朝を眩しく澄んだ光が照らす。
続く
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