落日・10






鴻芙蓉は死の淵にいた。
その背に刺さった二本の矢。胸元に、華奢な体を突き抜けて出た鏃の先が見えている。
瀕死の態で辿り着いた、林道沿いの朽ちた家屋。
土壁にもたれ、途切れ途切れのか細い呼吸を繰り返す。
膝に抱えた劉禅を見る。
あどけない。
黒い瞳がまっすぐ自分を見上げてくる。

「……」

我が子に呼びかけようとした。
だが、もう声が出てこない。
劉永は? 劉理は?
混乱の中、逃げ惑う人々の中、見失ってしまったきりだ。
芙蓉はひたすら己を責める。
なぜだろう、なぜ、娘達の手をしかと握っておかなかった?
上衣の裾を握っておくよう言ったのだ。ああ、しかし、適わなかった―――あの混乱の中にあってあのように幼い子らがどうして自力で縋れよう!
許しておくれと、この母が悪かったのだと、ただただ娘らに詫びる。

(……)

視界が徐々にかすみ出す。
脳裏をよぎる、幸福だった日々の記憶。
優しかった父と母。明るく元気な翼徳の顔。故郷の街、山、川、野の花々。
黄巾と共に訪れた血の嵐。みな死んだ。父母と、家族と、みな殺された。翼徳と逃げた。恐れと涙だけがあった。

(玄徳様)

北斗七星を目指して白馬が駆ける。
鞍上には自身と劉玄徳。彼だけだ。自分と彼と、世界に二人きりだった。月光と星の瞬きだけがあの初恋を知っていた。
やがて、別れが訪れた。
寇氏と出会う。寇封を得た。優しい息子だ、苦労ばかりかけた。
再び別れが訪れた。
苦難の果てに、再び北斗七星が、頭上にまぶしく煌めいた。
劉玄徳との邂逅は奇跡以外の何ものでもない。彼と過ごした時間のすべてが安らぎと愛に満ちている。

(玄徳様。封。永。理。翼徳。お父様、お母様)

会いたい。
しかしもう会えまい。

(でも、死ねない、どうしても。死ねばこの子はどうなるの。私が死んで一体誰が禅を守る?)

膝上の劉禅を抱き寄せる。
しかし、現実に芙蓉の腕はもう動かない。
背にも胸にも矢傷から流れた多量の血潮が見てとれる。
我が子への愛が、母親の執念が、尽きかけた芙蓉の命をつなぐ。





朦朧とする芙蓉の意識。
が、ふいに人の気配を感じ取り、瀕死の体に残る力を振り絞り頭を上げた。

「…!」

瞬間、彼女の全身を、歓喜と安堵が駆け巡る。
趙将軍!
名を呼ぶ。呼んだつもりだった。しかし血の気の引いたその唇はもう動かない。
ありがとう、
見つけてくれてありがとう、
どうかこの子を守ってやって―――鴻芙蓉はその死の間際に一体何を見るのだろう。我が子への愛、夫への愛、そして…


趙雲の足元で彼女は死にかかっている。
十四年もの長きに渡り憎み続けたその女が、血塗れでうずくまっている。
優しい女だ。
美しい女だ。
誰にでも分け隔てなく慈愛を注ぐ女なのだ。
いつでも周囲を気遣っていた。貴賤を問わずすべての者に礼節をもって振舞っていた。

(そうだ。いつも、いつでも、俺をも気遣ってくれた。あの方を愛し、愛されていた。貴女は優しい人だった)

そんな貴女がなぜ憎い?
なぜ俺は、これほどまでに貴女を憎んできたのだろう?
貴女ほどあの方の、玄徳様の傍らにふさわしい人はいないだろうに。

(俺は…)

その場に力なく膝を折る。
華奢な体を射抜いた二本の矢を見やる。
芙蓉の面は蒼白だ。だが、趙雲の姿を捉えたその双眸は、深い安堵を湛えていた。我が子を託せる、救ってやれる、希望の光に満ちていた。

(お守りします。鴻芙蓉様。玄徳様が俺を信じて託されたのだ。貴女はあのお方にとって誰より大切な存在、)

―――趙雲の体がビクンと跳ねた。
地についた膝が震え出す。
十本の指が異様な痙攣を放ち、手にした槍が地に落ちる。

(あの方にとって誰より大切な存在?)

嫌だ。違う。
認められない、やめてくれ、
嫌だ、やめろ、嫌なんだ、なぜ貴女なんだ、なぜ俺は…

「…!!」

次の瞬間、憎悪がすべてに勝利した。
信義も、情も、忠誠も、なにもかもすべて消し飛んだ。
嫉妬が趙子龍を殺す。
殺して作り変えてしまう。
趙雲は、今、真の意味での怪物となる。
怪物の右手が芙蓉の白い首を掴む。強靭な指がのどに絡んで食い込んでいく。
芙蓉の唇が震えた。瞳が光を失っていく。骨の砕けるにぶい音。のど首を折られた衝撃で、肺に溜まった赤い血が一気に口から吹き出した。
芙蓉の膝に抱かれた劉禅、その顔面に、母の吐く血が滝のごとくに垂れ落ちる。赤子はワッと火がついたように泣き出した。



息絶えた芙蓉の白い面を見下ろしたまま、趙雲は呆けたように座り込む。
芙蓉の抱えた苦しみも喜びも、その生涯の断片すらも、彼はついに知ることがないままだった。
語り合えば、真正面から向き合ったなら、何かが変わっていたろうか?
だが、もう遅い。今となっては遅過ぎる。
憎まねばよかった。
憎まずにはいられなかった。
狂気はなおも持続する。泣きわめく赤子の声が耳に障って仕方ない。母の血を浴びて泣く劉禅を、荷物か何かのようにグイと掴んで持ち上げた。

「……」

ぐるりと辺りを見回せば、荒れ放題の庭先に井戸があるのが目についた。
ふらつく足で立ち上がり、劉禅を手にぶら下げて歩き出す。
のぞき込んだ井戸底は真っ暗だった。
劉禅の泣き声がほとんど絶叫のそれになる。うるさい、うるさい、なんてやかましいんだろう!
赤ん坊のやわな体を頭上に高く掲げ、怪物は独り、嘆く。さよならだ。早く、早く、投げ入れろ、そうすれば終わる、すべてが終わる!

(貴女は…)

刹那、趙雲の脳裏をよぎる、死にゆく芙蓉のあの眼差し。
瞳には希望と安堵だけがあった。
趙雲を信じていた。
信じて我が子を託そうと、守ってくれと願っていた。

(芙蓉様………俺は)

母の愛が、その執念が、我が子を死地から引き戻す。
趙雲は井戸底に投げ込もうと掲げた劉禅の体をゆっくり胸元まで下ろす。
出来ない。殺せない。
どうしても腕が動かない。
血に汚れた顔で赤子がぐずる。もろく頼りない感触。あまりに小さい命であった。


懐中に収めた劉禅を、戦袍をもって自らの体にきつく括りつけた。
自由になった両の手で手綱と槍を操り、走る。
血と贖罪の逃避行。
白刃の煌めく刹那、その一瞬に、趙雲は生を見る。









その全身が血塗れとなった趙雲を前に、劉備は感情のすべてを失ったかのように、ただただ無言で立ち尽くす。

「奥方様は亡くなられました。劉永様と劉理様もお連れすること叶いませなんだ。すべてこの子龍の咎です。この罪万死に値します」

鴻芙蓉と娘二人の“死”を告げて、趙雲は主君の前に膝を折る。
胸元で劉禅がもぞもぞ動く。か細く弱い泣き声を上げた。
劉備がふらつく足取りで趙雲のもとへ歩み寄る。
うずくまる趙雲の肩に手を置き、その面を上げさせた。間近で見る劉備の顔は透けるがごとく蒼白だ。
彼は震える唇で、趙雲に向け、何ごとか告げようとした。だが、どうしても声が出てこない。ふりしぼるようにして、ようやっとひとこと、言った。

「無事で良かった、子龍、よく生きて戻ってくれた」

顔も胸も手も、どこもかしも血まみれの趙雲を、劉備は無言で抱きしめる。
その体温が趙雲の全身に激情をもたらした。
今この瞬間、強烈に生を自覚する。
生きている。生き延びたのだ。貴方の妻を屠ったこの手で俺は貴方に愛を乞う。

(会いたかった、会えてよかった、劉玄徳。貴方無しでは生きられない、俺は罪人のまま貴方の側に在り続ける)

許してくれ、芙蓉様、なにもかも俺が悪かった!―――愛の歓喜と罪の呵責に震える趙雲の瞳が、ふいに、死んだ女の姿を映す。
かすかに慄き目を見開いた。
まさか、貴女は死んだのに。俺がこの手で殺めたはずであったのに。

「なぜです」

違う。鴻芙蓉ではない。彼女と同じ顔をしたあの少年だ。
劉備の後ろに立つ劉封。身に纏う純白の錦の袍が、趙雲や他の将と同じく血の赤に染まりきっている。
母と妹達の死を告げられた少年は、震える声で趙雲に問う。

「なぜです、なぜ母達を守らなかった。あなたは側にいたのでしょう。一体何をしてたんです」

息子の言に、劉備がハッとしたように背後を顧みた。

「封、よさぬか」
「主君の妻子を託されながら、なんです、みんな死なせただって…?……ええ趙雲、あなたは一体何をしていた、それでもあなたは将なのか」
「封、」
「どの面下げてここへ来たんだ、あんたという奴は、趙雲、」
「やめよ、封!」

語気を荒げて息子に向き直る劉備。
父も子も、涙のひとつ、流れるでない。
衝撃のあまりの大きさに、まともな悲しみすら感じない。

「なぜそのようなことを言う、封よ、子龍の様を見よ。あの窮地をたった一人で戦い生き延びてくれた、こうして禅まで連れて帰ってくれたのだ。なぜ労わらぬ、なぜそのように責めるのだ」
「なぜ責めるって? 一体なにをおっしゃるのです? 母上が、永が、理が死んだのに、父上、なぜ貴方はそんな、なぜ、」
「封、人々を見よ。みな家族を亡くし傷ついている。親を、子を、みなが失い悲しんでいる。どうして我々だけが恨み嘆いていられよう」
「わかりません、父上、貴方は、私は、悲しむことすら許されないというのですか。わからない、嫌だ、そんなことってあるもんか!」
「言うでない、封! もう言うでない!」

叫ぶようにそう言って、劉備は劉禅を抱え上げ、劉封にグイと押しつける。

「向こうへ連れていきなさい」

少年は父に苛烈な眼差しを向ける。
白芙蓉のかんばせが、憤りと不信に歪み、こわばり、ひきつっていた。
劉封はぐずる劉禅を胸に抱き、踵を返してそこから立ち去っていった。





あらゆるものがゆっくりと、亀裂を孕んで音もなく崩れ出す。
怪物の愛執が夫と妻を引き離し、幼い姉妹を彷徨わせ、父と息子を引き裂いていく。
芽生えた不信は情を呑み込み押し流す。
誰もが狂気を胸に宿して暗い闇路を迷い行く。

その日、趙雲のその魂に、罪と愛とが食い込んだ。
永劫の呪縛であると知る。
業の鎖は断ち切れない。








続く




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