落日・9






彼方より響く不穏な地鳴り。
それが曹操軍の馬蹄の音であると悟り、王貂蝉は思わず背筋を凍らせた。
馬車の窓から後続の夏侯蓮の車を見やる。大丈夫だ、ついて来ている。安堵し、そしてからわずかに眉を曇らせた。

(義姉上…)

義姉の鴻芙蓉と護衛に付いた趙雲とは、襄陽を離れる際にはぐれてしまったきりである。

「……」

馬車の周囲がやけに騒がしくなっていた。

「……!?」

数瞬ののち、事態は一気に暗転を迎えた。
馬車の外からヒュンヒュンと宙を切る無数の矢音と共に民衆の耳をつんざく悲鳴が上がる。
驚愕と戦慄に、貂蝉はその目を見開いた。
死地だ。
再び死地へと還ってきた。

(…奉先)

亡き前夫の孤独な魂を思う。
優しかった父・王允の志を思う。
玲綺を思う。関平を思う。愛し、敬う関羽を思う。
信義と忠誠を捧げ仕える劉備を思う。
愛する者達と共に過ごした日々の記憶が貂蝉の魂に力を宿す。
薄絹で仕立てられた肩掛けを脱ぎ、関興の体を固く、きつく、自身の胸に括りつけた。

「!!」

限界に達した馬車の速度。
ふいに、車体がガクンと大きく跳ねた。
車軸が折れたことを知り、貂蝉は胸元の我が子をかばって屈み込む。地に投げ出される御者の悲鳴。横転した貂蝉の馬車に巻き込まれ、後続の夏侯蓮の馬車も続けて横倒しになった。
遠くに、近くに、敵兵の鬨の声が鳴る。
馬車の窓から外へと這い出た貂蝉は、義妹の馬車に駆け寄った。

「あ、義姉上…!」

泣きわめく張苞を腕に抱えた夏侯蓮。よろめきながらも貂蝉の手を取り、どうにか馬車の外へ出た。
貂蝉は夏侯蓮に肩掛けを脱ぐよう指示を出し、それを使って張苞を彼女の胸に括りつける。
降り注ぐ矢の雨。
恐慌状態で逃げ惑う人々の中、貂蝉は、夏侯蓮の手を握って走り出した。
義妹がその手を固く握り返してくるのがわかる。
その瞬間、ただ、生きることのみを思った。




追撃してくる曹操軍と斬り合いながら、関平は南を目指し、駆けていく。
十八歳の少年は生きながら“鬼”と化していた。
今、彼を生かして突き動かすのは、ただ復讐の一念のみだ。
虫けらか何かのように殺されていった親兄弟。
徐州を襲ったあの悪夢の日、自分はわずかに三歳だった。だのに記憶は残酷なほど鮮明だ。
父・関定の、兄・関寧の、その惨たらしい死に様が、十五年が経った今でもハッキリ脳裏に焼きついている。
憎悪が彼の武を磨き、復讐の念が四肢を強靭に鍛えた。
縦横に振るわれる関平の偃月刀。
敵兵の腕が、首が、血飛沫をあげて宙を舞う。
血濡れた死地のただ中で、関平は胸底に閉じ込めた漆黒を解放し、その衝動が命じるままに敵兵を斬り倒し続けた。




戦いは刻一刻と激しさを増していく。
逃げ惑う民衆への略奪、殺戮が始まり、南陽の地の至る所で凄惨な光景が展開された。
劉備の一族郎党はそのほとんどが主君とはぐれ、単騎で死地を駆けていた。


簡雍は左足に矢を受けたまま、痛みをこらえてひたすら馬首にしがみついた。
捕らわれの身となれば二度と劉備の元へは戻れぬことを知っている。恐怖がその意識をつなぐ。必ず辿りついてみせる。
あきらめる気など微塵も無い。


麋芳もやはりその肩に矢を受けながら、必死に味方の本隊を探し求めて南へ走る。
愛馬を励まし、自らを叱咤する。
故郷の徐州を血で染めた曹操への憎悪、苦楽を共にしてきた兄への思慕、主君・劉備に託した理想、すべてが生きる理由となった。
麋芳は願う。
心の底から、ただ“生”のみを。





窮地に在って人の指針を定めるものとは一体なんであるのだろう。
それはある者にとっては復讐の念であり、またある者にとっては理想と志である。
生と死の狭間に見出すものがなんなのか。

(奥と子供達を頼む、どうか守ってやって欲しい)

趙雲は今、目につく敵を片っ端から斬り伏せながら、あの時の劉備の言葉を思い出す。
敵味方入り乱れての激戦の中、鴻芙蓉と娘達の乗ったその馬車を、図らずも見失っていた。

(……見失った?)

そうなのか?

(俺は…)

騎兵を三人、立て続けになぎ倒す。
槍先から鮮血が柄を伝う。

(………)

自問する。惑う。
視界のすべてが灰色になる。
違う――――見失ってなどいない。
あの瞬間、馬車の車輪が砕けて折れた。覚えている。この目で見ていたのだから。
斜面の下へと転落した馬車の中から、女の悲鳴と幼い姉妹の泣き声がした。

(見たんだ。俺は確かに聞いた)

そうだ、いたんだ、
馬車の中にはあの方の妻と子供らが。
守ってくれと、あの方が、俺を信じて託されたんだ。
助けねば。
早く、早く、手遅れになる、
助けに行かなくてはならない。

(…………)

いや、俺は、その時一体何をした?――――手綱を握る趙雲の手が小刻みに震えを放つ。
甦る。
思い出す。
そう、あの時自分は倒れた馬車を崖の上から見下ろしながら、無言で彼らの泣き声を聞いていた。
駒を返してその場を去ったのではないか。
そうだ。
俺は見捨てたのだった。
あの方の妻を、子を、見捨てて置き去りにしたのだ。
錯綜する記憶の中、劉備の言葉がその脳内を駆け巡り、趙雲の苦悶に拍車をかける。

(貴方は俺を信じてる、俺は貴方を愛してる、俺は貴方の妻が憎い、貴方は妻を愛してる)

繰り返す。
愛の言葉が呪詛になる。
死人の野を行く趙雲を導き、そして生かすのは、愛と憎悪と狂気の念だ。

劉玄徳こそ我が掟。
この鬼門を抜けた先には彼の築いた楽園がある。


歪む世界。
“怪物”が声にならない叫びを上げた。








続く




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